第十九章 呪われ書庫の真実
書庫に戻ったのは、夜の帳が完全に下りた後だった。
館長、ミレイユ先輩、ノア、ゼノ、そしてわたし。五人が閉架書庫に集まった。セレナは王宮側の封印師と連絡を取りながら待機していた。
書庫の中は、昼間と明らかに違った。
燭台を増やしても、光の届かない影が棚の奥に積み重なっている。封印検印器を各棚に当てると、数値が軒並み低下していた。封印師が施し直した封印が、また崩れ始めていた。
「速い」
先輩が数値の記録を見ながら言った。
「昨日より崩れるペースが上がっています。外部からの干渉が、今夜また入っている」
「どこから干渉できるんですか」
「書庫に直接来なくても、術式によっては離れた場所から影響を与えることができます。精度は落ちますが、今夜みたいに連鎖的に崩れているときは効果が出やすい」
ゼノが棚の間を確認しながら言った。
「入り口と搬入口、確認した。今夜は外部からの侵入者はいない。純粋に術式の干渉だ」
「では、グレイヴ補佐官が王宮内のどこかから干渉している可能性が高い」
「ああ。王宮の封印師を使えば、遠隔からの術式操作も可能だ」
「セレナ書記官の待機している封印師では、対抗できませんか」
「対抗術式を組んでいる。ただし、相手の術式の根がどこにあるかが分からないと、完全には止められない」
館長が言った。
「根を見つける方法は」
「封鎖区画の書物が暴走した場合、その暴走の中心に根がある可能性があります。ただし、それを確認するためには、暴走が起きてから動くことになる」
「危険ですね」
「ええ。ただ」
ゼノはわたしを見た。
「一つ方法がある」
「何ですか」
「百三十九番だ」
わたしはゼノを見た。
「あの本が、今夜の状況と呼応していると言っていた。内側から引っ張られる気配があると」
「はい」
「その気配の方向を追えれば、干渉の根がどこにあるか、分かるかもしれない」
「感じ取れるかどうか、試してみます」
「無理はしないこと」
「分かっています」
先輩が言った。
「百三十九番に近づく前に、周囲の棚の封印を先に補強します。崩れている棚を放置したまま動くと、連鎖が起きたときに逃げ道がなくなる」
「順番を決めましょう」
「ノアと館長が周囲の棚を補強。わたしとフォルナーさんが百三十九番に向かう。アルヴェイン騎士は全体の警戒を」
「分かりました」
作業を始めて三十分が経った。
ノアと館長が外側の棚を補強していく間に、先輩とわたしは三号棚へ向かった。
百三十九番の前に立った瞬間、分かった。
今夜は比べ物にならないほど強かった。棚の前に立っただけで、手の先から腕の内側まで、重さが走った。焦りに近い何か、伝えられないまま積み上がったもの、それが今夜は棚を越えてこちらに向かってくるような強さで漂っていた。
「感じますか」
先輩が聞いた。
「強くなっています。方向が、あります」
「方向?」
「この本から漂っているものに、向かっている先がある気がします。棚の向こうではなく、もっと遠く。封鎖区画の方向だと思います」
「封鎖区画と、この本が繋がっている」
「同じ人間が関わっていたからだと思います。ファルク・ベルンが両方に関わっていたとしたら、残した痕跡が呼応している可能性がある」
「干渉の根は、封鎖区画にありますか」
「封鎖区画の中の、特定の書物だと思います。あそこに入ったとき、ゼノ様が強く反応した容器がありました。あの容器か、その近くの書物か」
「アルヴェイン騎士」
先輩が呼んだ。ゼノが来た。
「フォルナーさんの感覚では、干渉の根が封鎖区画にある可能性があります。今夜、入れますか」
「許可は取れている。入れる」
「干渉の根を断てますか」
「術式の根を断てれば、連鎖は止まる。ただ、封鎖区画に入った瞬間に暴走が加速する可能性がある」
「どのくらいの確率で」
「高い。相手はこちらが動くのを待っているかもしれない」
「それでも行きますか」
「行く。ただし、フォルナーさんには」
ゼノがわたしを見た。
「書庫に残ってほしい」
「百三十九番の案内が必要ではないですか」
「感じ取れる方向は聞いた。封鎖区画に入ったら、容器の周辺から確認する。それで十分だ」
「でも」
「フォルナーさん」
ゼノの声は、いつもより少し低かった。
「今夜、封鎖区画が暴走した場合、書庫にも波及する。波及したときに、ここにいてほしい。先輩と一緒に、書庫の書物を守ってほしい」
わたしは少し間を置いた。
「守られるためではなく、守るために残れということですか」
「そうだ」
それなら、違う意味だった。
「分かりました」
「頼む」
ゼノは先輩に向いた。
「封鎖区画に入ります。根を断ち次第、戻ります。それまで、書庫を持たせてください」
「任せます」
ゼノが書庫の奥へ向かった。
その背中を見ながら、わたしは百三十九番の前に立ち続けた。
ゼノが封鎖区画に入った数分後、書庫の空気が変わった。
変わった、というより、揺れた。棚全体が、微かに震えるような感覚。封印検印器がノアの手の中で振れた。
「数値が急落しています」
「どの棚」
「全部です」
先輩が動いた。
「ノア、館長、西側の棚から順に補強を続けて。フォルナーさん、三号棚を離れないこと」
「はい」
三号棚の書物が、一斉に反応し始めた。
表紙が持ち上がり、頁が波打つ。一冊ではなかった。三号棚全体が、同時に動いていた。
「先輩」
「見ています。術式を組みます、補助して」
「はい」
先輩の詠唱が始まった。わたしは封印札を構えた。
一冊目に術式が届いた。押さえ込んだ。二冊目。三冊目。でも、補強した端から、別の棚の数値が落ちていく。
「追いつかない」
「分かっています。優先順位を付けます。三号棚の中央から押さえて、端は後回し」
先輩が術式の組み方を変えた。範囲を絞って、密度を上げる。わたしも封印札を惜しまずに使った。
数値が落ちるペースが、少し緩やかになった。
そのとき、書庫の奥から音がした。
封鎖区画の方向だった。
大きな音ではなかった。でも、空気が変わる感覚があった。ゼノが何かと対峙している、そういう気配が、書庫の壁越しに伝わってきた。
わたしは百三十九番を見た。
他の書物が動いている中で、百三十九番だけが違う動き方をしていた。波打つのではなく、静かに、まっすぐに立っていた。ただ、その背表紙から漂う気配が、今夜で一番強くなっていた。
伝えようとしている。
明確にそう感じた。
「先輩、百三十九番を確認してもいいですか」
「今は危険です」
「他の書物とは反応が違います。暴走しそうではない。むしろ、何かを示そうとしている気がします」
先輩は術式を維持しながら、百三十九番を見た。
「……確かに、他と動き方が違う。ただし、触れる場合は必ず声をかけてから」
「はい」
わたしは百三十九番の前に屈んだ。
棚の端に出かかったままの、封印札のない一冊。
感じた。
三十年間、誰かが触れることを待っていた気配。伝えられなかった何かが、今夜初めて届きそうな、そういう緊張感。
「触れます」
手袋をした指で、背表紙に触れた。
一瞬だった。
手の平から、頭の奥まで、何かが流れ込んできた。感情の残り香ではなかった。もっと明確な、記録の断片だった。人の声ではなく、言葉でもなく、でも意味として伝わってくるものがあった。
焦りの理由が、分かった。
この本の中に、ファルク・ベルンが残した封印術式の記録があった。暴走を止めるための術式の手順。三十年前の暴走の現場で、彼が実際に使って、書物を封じた術式。
それが今夜、書庫全体の暴走を止めるために使えるかもしれなかった。
「先輩」
「何が分かりましたか」
「この本の中に、封印術式の手順書があります。三十年前にファルク・ベルンが使ったものだと思います」
「どういう術式ですか」
「連鎖的な暴走を一度に封じる術式です。範囲が広い代わりに、中心から発動する必要があります」
「中心というのは」
「今夜の暴走の根、封鎖区画にある干渉の根から発動しなければ、効かないと思います」
「封鎖区画にゼノ騎士がいます」
「ゼノ様に伝えなければなりません」
「どうやって」
「直接行きます」
「フォルナーさん」
「書庫に残れと言われました。でもゼノ様が干渉の根を断てなかった場合、書庫の暴走は止まりません。この術式の手順を届ける必要があります」
先輩はわたしを見た。
「術式の手順を言葉で伝えられますか」
「本から感じ取ったものです。言葉で正確に伝える自信がありません。本を持っていきます」
「この本を持ち出すことで、書庫の暴走が加速する可能性があります」
「加速する前に届きます」
先輩はわずかに目を閉じた。
「……ノア、館長、こちらを頼みます。わたしもフォルナーさんについていきます」
「先輩まで」
「あなた一人を行かせません。二人で行きます。ノア、三号棚の封印補強を続けて。数値が臨界に近づいたら、外に出ること」
「分かりました」
「館長」
「わたしはここにいます。行きなさい」
館長の声は静かだった。でも、その静けさの中に、背中を押すものがあった。
わたしは百三十九番を慎重に取り出した。手袋をしたままで、両手で持った。
先輩と一緒に、書庫の奥へ走った。
封鎖区画の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
前回より、ずっと重かった。書物の大半が暴走状態にあった。頁が激しく波打ち、棚から落ちそうになっているものがいくつかある。燭台の火が強く揺れて、影が大きく動いていた。
ゼノが部屋の中央にいた。
容器の前で、術式を組んでいた。封印の光が両腕の周囲に走っていて、容器から放たれる何かと正面からぶつかっていた。顔色は白かったけれど、動きは止まっていなかった。
「ゼノ様」
声をかけると、ゼノが一瞬こちらを見た。
「なぜ来た」
「術式の手順書があります。ファルク・ベルンが残したものです。この術式を使えば、連鎖を一気に封じられるかもしれない」
「今の状況で新しい術式を入れると」
「暴走が加速する可能性があります。でも、このまま封印し続けても、遠隔から干渉されている限りは限界が来ます」
ゼノは一瞬考えた。
「術式の起動点はどこだ」
「容器が干渉の根ならば、容器から発動します」
「手順書をこちらに」
「感じ取ったものを言葉にすると正確ではないかもしれません。わたしが補助します」
「一緒に発動するか」
「はい」
ゼノは少し間を置いた。
「危ない」
「知っています」
「それでも」
「ここまで来ました。最後まで一緒に動きます」
ゼノはわたしを見た。
何かを言いかけて、言わなかった。
「……分かった。指示に従ってくれ」
「はい」
先輩が部屋の端で補助の術式を組み始めた。暴走しかけている書物を抑え、わたしたちが動ける空間を保つために。
ゼノと並んで、容器の前に立った。
容器から漂う干渉の気配は、近づくと明確だった。誰かが遠隔から術式を流し込んでいる根がここにあった。この根を断ち、同時にファルク・ベルンの術式を発動すれば、連鎖を一気に封じられるかもしれなかった。
「百三十九番を持ったまま、術式の補助をしてほしい。俺が根を断く瞬間に合わせて、封印の力を上乗せしてくれ」
「タイミングを教えてください」
「今から詠唱に入る。詠唱が最高点に達したとき、わたしが言う。そのとき動いてくれ」
「分かりました」
ゼノの詠唱が始まった。
普段の封印術式より、ずっと長く複雑な詠唱だった。容器から流れ込む干渉の気配が、抵抗するように強くなった。書物の暴走が、部屋全体で激しくなった。一冊が棚から落ちた。先輩の補助術式がそれを受け止めた。
詠唱が高まっていった。
わたしは百三十九番を両手で持ち、本から感じ取った術式の記憶を、自分の中で整えた。ファルク・ベルンが三十年前に使った手順。彼が書庫を守るために残した記録。それを今夜、もう一度使う。
「今だ」
ゼノの声が響いた。
わたしは百三十九番に意識を集中させながら、封印の力を上乗せした。
ぶつかった。
ゼノの術式と、わたしの補助が重なって、容器に向かった。容器から流れ込む干渉の根に、二つの力がぶつかった瞬間、空気が震えた。
燭台の火が全部消えた。
完全な暗闇の中で、封印の光だけが走った。
容器の表面で、何かが弾けた。
干渉の気配が、断ち切れた。
わたしにははっきり分かった。根が断たれた。遠隔から流し込まれていた術式の流れが止まった。
同時に、百三十九番から何かが広がった。
ファルク・ベルンの術式が、部屋全体に広がった。暴走していた書物の動きが、一冊ずつ、棚に戻るように鎮まっていった。頁が静まった。落ちかけていた本が止まった。
静寂が戻ってきた。
燭台に火が戻った。先輩がいつの間にか再点火していた。
部屋の全体が、静かになっていた。
わたしは両手に百三十九番を持ったまま、立っていた。
手の平が、震えていた。
でも、怖いからではなかった。
「……止まりましたね」
先輩の声がした。
「止まりました」
ゼノが言った。
わたしはゼノを見た。ゼノも、わたしを見ていた。
二人とも、息を整えるのに少し時間がかかった。
「ファルク・ベルンの術式が、有効でしたね」
わたしは言った。
「三十年前と、今で繋がった」
「ええ」
ゼノは百三十九番を見た。
「その本を、彼は書庫に残した」
「誰かが使えるように、だと思います」
「使われた」
「使われました」
ゼノは少し目を閉じた。
先輩が容器を確認した。
「干渉の根が断たれています。ただし、容器に刻まれた術式の痕跡は残っています。これが証拠になります、グレイヴ補佐官が遠隔で干渉していたという」
「王宮側に報告します」
「ゼノ騎士、体は大丈夫ですか?」
「平気です」
「頭痛は」
ゼノは少し間を置いた。
「……ない」
「ない、ですか」
「ない。今夜、術式を発動したとき、何かが外れた感覚があった」
「外れた」
「頭の奥に、ずっと何かが張り付いていた。それが、なくなった気がする」
わたしはゼノを見た。
「封印が、解けたんでしょうか。記憶の」
「分からない。ただ、今までと違う」
「何か思い出しましたか?」
「断片が、いくつか。父の顔に近い何か。書庫の匂い。それだけだ。でも、今までは何もなかったから」
「封印師に診てもらいましょう。今夜の術式の発動で、記憶の封印に変化があった可能性があります。正式に対処する必要があります」
先輩はゼノに穏やかな声で言う。
「そうします」
書庫に戻ると、ノアが館長と一緒に数値の確認をしていた。
「止まりましたよね、急に」
「止まりました」
「何が起きたんですか?」
「説明は後で。数値は」
「全棚、落ちていた数値が少し戻っています。すごい速さで安定していっています」
「ファルク・ベルンのおかげです」
「ファルク・ベルンって」
「三十年前にこの書庫にいた人です。今夜、手伝ってもらいました」
ノアは少し考えてから、「そうなんですね」と言った。それ以上は聞かなかったけれど、雰囲気で受け取ってくれたようだった。
館長がわたしのところに来た。
「お疲れ様でした、フォルナーさん」
「お疲れ様でした」
「無事でよかった」
館長の声は穏やかだったけれど、今夜はその奥の重さが、いつもより感じられた。
「館長、ルシアン・グレイヴ補佐官は」
「容器の術式痕を証拠として、今夜中に王宮の調査部門に報告します。遠隔干渉の証拠が出れば、正式な調査が始まります」
「逃げませんか?」
「証拠が固まれば、逃げられません。セレナ書記官も動いてくれています」
「そうですか」
わたしは百三十九番を、元の棚に戻そうとした。
その前に、もう一度だけ手に持って、感じた。
今夜とは違う気配だった。
焦りが、なかった。
ずっとそこにあった、伝えられないまま積み上がった焦りが、今夜消えていた。代わりに、穏やかな何かが残っていた。満足とは少し違う。でも、終わったという気配に近いものが。
「届きましたよ」
わたしは小声で言った。
「ファルク・ベルン、あなたが残したものが、今夜使われました」
返事はなかった。
でも、手の平に、かすかな温度があった気がした。
百三十九番を棚に戻した。
今夜初めて、その本が棚の中で、他の本と並んで静かに立っていた。




