最終章 新しい目録の一頁
正式採用の通知が届いたのは、十日後だった。
朝、出勤して書庫の鍵を受け取ろうとしたとき、館長室から先輩に呼ばれた。館長とミレイユ先輩が並んで立っていて、机の上に一枚の書類があった。
「王立図書館司書、リシェル・フォルナー。採用の件、正式に決まりました」
館長が書類をわたしに渡した。
受け取って、読んだ。名前と、配属先と、採用日が、整然とした字で書かれていた。
「……ありがとうございます」
「礼は仕事で示すものです」
先輩が即座に言った。
「はい」
「今日から見習いではありません。ただし、まだ一人前ではありません。覚えることは山ほど残っています」
「承知しています」
「それだけ分かっていれば、十分です」
先輩は書類を確認する仕草をしながら、もう一言だけ言った。
「よく続きました」
それだけだった。
ミレイユ先輩の「よく続きました」は、他の誰の百の言葉よりも、重かった。
役に立たないと言われたものが、ここでは仕事になった。
それを、ようやく自分でも信じられる気がした。
わたしは深く礼をした。
その日の午前中、王宮から連絡が来た。
封鎖区画の記録の保全について、王宮と図書館の合同で正式な作業を始めるという内容だった。消された記録の復元、欠落していた情報の補完、そして正式な記録としての保管。長い作業になるけれど、ようやく始められることになった。
担当者の一人として、セレナの名前があった。
もう一人の担当者として、フォルナー司書の名前があった。
わたしの名前が、見習いではなく、司書として記載されていた。
ノアがそれを見て、「載ってますよ、リシェルさんの名前」と言った。当たり前のことを確認するような言い方だったけれど、その「当たり前」が、ずっと欲しかったものだと思った。
昼過ぎ、セレナが図書館を訪ねてきた。
合同作業の打ち合わせのためだったけれど、先に少し話した。
「グレイヴ補佐官の件は、調査が続いています」
「決着はいつごろになりますか?」
「時間がかかります。王宮内での記録改竄への関与、封印への遠隔干渉、それぞれについて別々に調査が進んでいます。ただ、これ以上の干渉はできない状態です」
「彼が動いていた理由は、最終的には何だったと思いますか?」
セレナは少し考えた。
「記録を支配したかったのだと思います。真実を暴くのではなく、自分が正史を書く側に立ちたかった。そのために、都合の悪い記録は消し、都合のいい形で残す。それが彼の目的でした」
「記録を守ることと、記録を支配することは、正反対ですね」
「ええ。そして彼は、フォルナーさんの力を、支配のための道具として使おうとしていた」
「使われませんでした」
「使われませんでした」
セレナはわたしを見た。
「フォルナーさん、一つ謝らなければならないことがあります」
「何ですか」
「ゼノ騎士のことを、もっと早く話すべきでした。わたくしが知っていることを、立場を理由に話さなかった。その間、彼は記憶のないまま任務を続けていました」
「セレナ様が謝ることではないかもしれませんが」
「謝ることです。立場があっても、話せることとそうでないことの判断は、結果として間違っていました」
わたしは少し間を置いた。
「セレナ様は、覚え書きを渡してくださいました。一番大事なときに」
「遅かった」
「でも、来ました」
セレナは少し目を伏せた。
「……ありがとうございます」
「ゼノ様に直接謝られましたか」
「昨日、少し話しました。謝りました。彼は、今はそれでいいと言っていました」
「そうですか」
「彼は、変わりましたね」
「変わりましたか」
「少し、柔らかくなりました。以前は任務以外の話をほとんどしなかった。今は少し違う」
わたしは手帳の角を触った。
「それは、記憶の封印が緩み始めているからかもしれません」
「そうかもしれませんね」
セレナはわずかに微笑んだ。
「それだけでもないと思いますが」
それ以上は言わなかった。
わたしも聞かなかった。
午後の打ち合わせが終わった後、セレナが帰り際に言った。
「今後の合同作業で、一つお願いがあります」
「何ですか?」
「ファルク・ベルンの名前を、正式な記録に記載することについて、フォルナーさんに主担当として動いてほしい」
「わたしが主担当ですか」
「あなたが最初に名前を見つけました。あなたの手で記録に戻すことが、筋だと思います」
わたしは少し間を置いた。
「ありがとうございます。やります」
「よかった」
セレナは出口に向かった。
廊下の途中で振り返った。
「フォルナーさん、司書になったことをお祝い申し上げます」
「ありがとうございます」
「記録を守る仕事は、地味ですが、誰かが必ずしなければならない仕事です。あなたはそれに向いています」
「先輩にも同じことを言われました」
「サーヴァン司書とわたくしが同じことを言うのですから、間違いありません」
セレナは今度こそ出ていった。
廊下に一人残ったわたしは、少しの間立っていた。
地味だけれど、誰かが必ずしなければならない仕事。
閉架書庫に配属された最初の日、ミレイユ先輩が言っていた言葉を思い出した。ここは、本が好きというだけで務まる職場ではありません。
あの日から、ずいぶん歩いた気がした。
翌週、封鎖区画の記録整理が正式に始まった。
最初の作業は、ファルク・ベルンの名前を正式な記録に戻すことだった。
図書館の閉架書庫、人員記録の棚。わたしはその前に立った。
セレナが横にいた。ミレイユ先輩も立ち会った。ゼノも来ていた。
人員記録の帳簿を開いた。問題の時代のページ。ファルク・ベルンの名前がないページ。
わたしは羽根ペンを取った。
「書きます」
「どうぞ」
先輩が言った。
わたしはページの空白に、丁寧に書いた。
ファルク・ベルン。閉架書庫担当。封印補助記録の管理、封印術式の開発に従事。三十年前の暴走事件において書庫の封印を守り、術式記録を後世に残した。
書き終えて、インクが乾くのを待った。
誰も何も言わなかった。
でも、静かな空間に、何かが満ちた気がした。
「……戻りましたね」
ノアが言った。
「戻りました」
先輩がページを確認した。
「正式な記録として保管します」
「はい」
ゼノが横から、ページを見た。
しばらく、ファルク・ベルンという名前を見ていた。
「おまえの術式で、昨夜の書庫が保たれた」
ゼノはページに向かって言った。
独り言のようだったけれど、わたしには聞こえた。
ゼノがそういうことを言うのは珍しかった。
でも、今日この場でなら、自然なことだと思った。
その日の夕方、書庫の鍵を閉める前に、わたしは一人で少しの間書庫にいた。
いつもと変わらない書庫だった。燭台の火、棚の影、本の匂い。昼間の点検で数値を確認した封印検印器が、作業机の上に置いてある。
三号棚の前を通った。
百三十九番は、今日も棚にひっそりと立っていた。昨夜の暴走の後、封印師が改めて封印を施してくれていた。封印札が貼られた背表紙は、他の本と同じように並んでいた。
近づいて、感じた。
とても静かだった。
あの焦りの気配は、もうなかった。代わりに、落ち着いた何かがあった。長い時間をかけて積み重なったものが、今日ようやく降りた。そういう落ち着きだった。
「今日、名前が戻りましたよ」
わたしは小声で言った。
「正式な記録に、書きました。今日からあなたは、記録の中にいます」
返事はなかった。
でも、手の平に伝わってくる気配が、少し違う気がした。昨日まではそこになかった、かすかな安堵のようなものが。
気のせいかもしれなかった。
でも、気のせいでもいいと思った。
棚を離れて、書庫を見渡した。
これがわたしの職場だった。魔導書と禁書と封印管理記録が並ぶ、誰もが特に望まない配属先。でも今は、他のどの場所よりも、自分の場所だと思えた。
出口に向かいかけたとき、廊下から足音が聞こえた。
扉が開いた。
ゼノだった。
「まだいたのか」
「最後の確認をしていました」
「そうか」
ゼノは書庫の中に入ってきた。
「一緒に出ていいか」
「はい」
鍵をかけて、廊下に出た。二人で図書館の出口に向かって歩いた。
廊下の燭台の火が、二人の影を壁に映した。
「今日のファルク・ベルンの記録を書いたとき、どう感じた?」
ゼノが尋ねた。
「緊張しました。それから、書き終えたとき、少し泣きそうになりました」
「泣かなかったか」
「泣きませんでした。先輩が横にいたので」
「先輩がいなかったら泣いていたか」
「分かりません。でも、こらえた分だけ、何か大事なものが胸に残りました」
「大事なもの」
「記録を残すことの意味が、今日初めて、体で分かった気がします。頭ではなく」
ゼノは少し間を置いた。
「俺も同じだった。あのページを見て、父のことを初めて、記憶としてではなく、繋がりとして感じた」
「繋がりとして」
「記憶は欠けている。でも、父がしていたことと、俺がしていたことが、今日のページで繋がった。そういう感覚だ」
「それは、記録が繋いだんですね」
「おまえが書いた記録が」
「わたしだけじゃなく、ファルク・ベルンも、ライナ・ヴェルトも、セレナ様も。みんなが少しずつ残してきたものが、今日一つになりました」
渡り廊下に出た。外の空気が夕暮れで冷たかった。
図書館の中庭が見えた。整えられた植栽と、石畳の小道。夕暮れの光が、葉の一枚一枚を橙色に染めていた。
「少し、ここにいてもいいか」
ゼノが言った。
「はい」
二人で中庭の端に立った。
風が来た。葉が揺れた。
「治療が進んで、記憶が戻ってきたとき、また変わるかもしれない」
「何が変わるんですか」
「自分のことが、変わるかもしれない。今まで知らなかった過去が出てきて、今の自分との折り合いをつけなければならない場面が来るかもしれない」
「そうかもしれませんね」
「そのとき、また揺れる」
「揺れていいです」
「また同じことを言う」
「同じことを言います。何度でも」
ゼノはわたしを見た。
「……一人で揺れなくていいか」
それは、さっきと少し違う問いだった。
一人で揺れなくていいか、というのは、一緒にいてくれるかと聞いているのと、ほとんど同じだった。
わたしは少し間を置いた。
「わたしがいます」
それだけ言った。
ゼノは少し目を逸らした。中庭の葉が揺れている方を見た。
「……ありがとう」
ゼノが「ありがとう」と言うのを、初めて聞いた気がした。
いつも礼はいいと言っていた人が、今日は受け取った。
二人でしばらく、中庭の夕暮れを見ていた。
何も言わなかった。でも、沈黙が重くなかった。
やがて外が暗くなり始めた。
「帰りましょうか」
「ああ」
二人で石畳を歩いた。
並んで歩く影が、夕暮れの光の中で伸びていた。
王立図書館の高い石壁の外に出ると、街の灯りがぽつぽつとついていた。
「明日も来るか」
「来ます。仕事がありますから」
「仕事だけか」
「仕事だけじゃないです」
ゼノはそれを聞いて、少しだけ、口元が緩んだ。
笑顔ではなかった。でも、笑顔の手前くらいの何かだった。
わたしにはそれで十分だった。
「では、また明日」
「また明日」
ゼノは石畳の道を歩いていった。
わたしはその背中を少しの間見てから、反対の方向へ歩き始めた。
手帳を取り出した。
歩きながら、一行だけ書いた。
新しい目録の一頁目。
今日から、続きを書いていく。
消えた記録は、少しずつ戻っていく。欠けた記憶は、少しずつ戻っていく。
全部が元通りになるわけではない。でも、今日より明日、明日より明後日と、少しずつ進んでいける。
街の灯りが、一つ、また一つとついていった。
閉架書庫の新米司書は、今日から司書になった。
記録を守る仕事が、また明日から続く。
それが、今はとても、嬉しかった。
(了)




