第9話 夜明けの槍
騎士たちは、思っていたよりずっと速く登ってきた。
雪の斜面に一列になって、前の者の足跡を正確に踏んでいく。
誰も口をきかない。
聞こえるのは、鎧の擦れる音と、荒い息の音だけだ。
先頭のカイルが、最初に岩棚の縁に手をかけた。
雪を蹴って、体を引き上げる。
剣は、もう抜いている。
その後ろから、騎士たちが次々に岩棚へ上がってくる。
上がった者から横に広がって、岩棚の縁に沿って並ぶ。
二十本の槍の穂先が、一斉にこちらを向いた。
回想の一枚絵と、同じ並びだった。
違うのは、槍の先にいるのが眠っている竜ではないことだ。
竜は、もう起きている。
そして、槍と竜のあいだに、宿屋の娘が一人立っている。
そんな絵は、描かれていない。
◇
「三日後のはずじゃ……」
もう一度、声がこぼれた。
カイルの灰色の目が、私を捉える。
息が上がっているのに、その目は少しも揺れていなかった。
「宿の娘が夜のうちに山へ入った、と母親が泣いていた。リタ、と何度も呼んでいた。だから、夜明けを待たずに発った」
母さんの声が、耳の奥で聞こえた気がした。
朝の厨房で、私の名前を呼んで泣いている母さん。
それを聞いて、鎧を着て飛び出してくる騎士たち。
私が登ったから、騎士団も登ってきた。
回想では、騎士団が眠っている竜を起こした。
今、竜を起こしたのは私だ。
そして、二十本の槍が、予定より二日早く、岩棚に並んでいる。
筋書きが、私の手を離れて勝手に進んでいく。
カイルの目が、私の背後の竜に移った。
それから、雪の上に置かれたままの、小さな瓶に落ちた。
「竜を起こしたのは、お前か」
「起こしたのではありません。話をしに来たんです」
「眠っているうちに囲むはずだった。予定は崩れた」
カイルは、剣の柄を握り直した。
「だが、起きている竜を前にして、退く理由にはならない」
「下がれ、娘。竜から離れろ」
「待ってください。この竜は、話ができます」
「竜は吠えるだけだ。百年、誰も言葉を聞いた者はいない」
「私は聞きました。一晩じゅう、話していました。その蜂蜜酒も、一緒に」
ロルフが、雪の上の小瓶に目をやった。
栓の抜かれた、宿の蜂蜜酒の瓶だ。
「……竜と、酒盛りかい」
「一口だけです。冬至には、まだ早いからって」
騎士たちが、顔を見合わせた。
誰かが、小さく鼻で笑った。
雪山で一晩過ごして、頭がどうかしたと思われたのかもしれない。
「嬢ちゃん」
ロルフが、槍を片手に持ったまま、もう片方の手をそっと差し出した。
昨日、広間で私に竜のことを聞いたときと同じ、丸い目だった。
けれど、その目の奥が笑っていない。
「怖かったろう。もう大丈夫だ。ゆっくり、こっちへ歩いておいで。竜を見ないで、俺の手だけ見て」
優しい声だった。
怯えた子どもを、崖の縁から呼び戻すときの声だ。
私は、首を振った。
「怖くありません。この竜は、村を焼いたことなんて一度もないんです」
◇
背後で、竜が低く吠えた。
岩棚の雪が、びりびりと震える。
騎士たちが、一斉に身をこわばらせた。
槍の穂先が、そろって数寸、前に出る。
いちばん端にいた若い騎士の槍が、がたがた揺れていた。
私と同じくらいの年に見える。
顔から血の気が引いて、唇が真っ白だ。
「待て」
カイルが、鋭く言った。
「娘が前にいる。誰も投げるな」
若い騎士が、はっとして槍を握り直す。
カイルは、剣を構えたまま、私から目を離さない。
私には、さっきの吠え声の意味が分かった。
四拍、休み、三拍、休み。
――撃つなら撃て。だが、娘は下がらせろ。
けれど、騎士たちには、ただの威嚇にしか聞こえない。
呪いは、まだ解けていない。
竜の言葉が届くのは、私にだけだ。
人は、聞きたいことしか聞かない。
さっき、竜がそう言った。
このままでは、どちらかが先に動く。
怯えた誰かの槍か、怒った竜の爪か。
回想の一枚絵は、そこから始まるのだ。
私は、雪の上で両足を踏みしめた。
十年分の台詞の中に、一つだけ切り札がある。
騎士団長に、槍を下ろさせるための台詞。
昨日の広間では、飲み込んだ。
使うなら、竜の前でなければ意味がないから。
今が、そのときだ。
「団長さん」
私は、カイルの目をまっすぐに見た。
「あなたのお父様は、二十年前、この山に登りましたね」
カイルの剣先が、わずかに揺れた。
ほんの指一本ぶんの揺れだった。
けれど、後ろに並んだ騎士たちが、それに気づいて息をのむのが分かった。
「……なぜ、それを」
「一人で登って、竜に槍を向けて、生きて帰ってきた。騎士団で、ただ一人。でも、お父様は、そのときのことを誰にも話さなかった。あなたにも」
騎士たちの列が、小さくざわめいた。
ロルフが、横目でカイルを見る。
「……先代のヴァレン卿が、騎士団の命令でもなく一人で北の竜の山に登って、戻ってきたって話は、騎士団じゃ誰でも知ってる。けど、山で何があったのかは、誰も知らねえ」
ロルフは、私に向き直った。
丸い目が、今度は笑っていなかった。
「嬢ちゃん。なんで、宿屋の娘が、そんなことを知ってる」
私は、答えなかった。
答えられる言葉を、私は持っていなかった。
回想の資料に、私が書いた設定だ。
カイルの父は、竜に挑んで生還した、唯一の騎士。
回想の中で、カイルは焼け跡に立って、こう言う。
『父は、北の山の話だけは、しなかった。俺が何を聞いても』。
私が書いた台詞だ。
書いたとき、その理由を知っていたのは、私一人だった。
本編では、その理由は明かされない。
明かされるはずだったのは、削られた隠しルートの中だった。
カイルは、何も言わなかった。
剣を構えたまま、灰色の目だけが私を見ている。
その目の奥で、何かが静かに崩れかけているのが分かった。
私は、振り返った。
竜の金色の目が、私を見下ろしている。
騎士たちの槍にも、カイルの剣にも、少しも怯んでいない目だった。
ただ、その目は一度だけ、岩棚の奥へ動いた。
雪をかぶった岩壁の、細い裂け目の方へ。
それから、ゆっくりとカイルの顔へ戻った。
竜は、銀の髪の騎士を、じっと見ていた。
誰かの面影を探すような目だった。
「ヴェルグ。あの槍は、まだ持っていますか」




