第10話 帰れ。お前を待つ子がいるのだろう
竜は、黙って首を巡らせた。
長い首が、岩棚の奥へ向く。
騎士たちの槍が、その動きを追って一斉に揺れた。
誰も、息をしていないみたいだった。
岩棚の奥の岩壁には、細い裂け目がいくつも口を開けている。
その一つに、竜は鼻先をそっと差し入れた。
雪がぱらぱらと落ちる。
鼻先が戻ってきたとき、その先に、何かが引っかかっていた。
竜は、それを爪の先でつまみ直して、雪の上に静かに置いた。
折れた槍だった。
柄は途中で折れて、穂先から腕一本ぶんほどしか残っていない。
穂先は錆びて、赤茶色になっていた。
けれど、柄に巻かれた布だけは、丁寧に雪が払われている。
色あせた、青い布だった。
端に、銀の糸で何かの形が縫い取られている。
翼を広げた、小さな鷹。
二十年、岩の裂け目の中で、雪に埋もれずに立てかけてあったのだ。
大切そうに。
隠しルートの中で、竜はこの槍をヒロインに見せる。
返しそびれたものだ、と言って。
竜は、人から預かったものは必ず返す。
返す相手が二度と来ないと分かっていても、捨てずに取っておく。
私は、そう書いた。
この世界の竜も、そうだった。
◇
カイルの顔から、表情が消えた。
剣を構えたまま、一歩、前に出る。
もう一歩。
騎士たちが止める間もなく、彼は私の横を通り過ぎて、折れた槍の前に片膝をついた。
竜の鼻先が、すぐそこにある。
カイルは、それを見もしなかった。
手袋を外した指が、青い布に触れる。
銀糸の鷹を、なぞる。
「……ヴァレン家の、槍布だ」
声が、かすれていた。
「父の槍には、布が巻いていなかった。子どものころ、なぜかと聞いたことがある。山で失くした、とだけ言った」
ロルフが、槍を構えたまま唇を噛んでいる。
後ろの騎士たちが、顔を見合わせる。
誰も、槍を下ろしていいのかどうか分からない顔をしていた。
私は、カイルの背中に向かって言った。
「お父様は、竜を討ちに来て、竜に命を救われたんです」
カイルの肩が、かすかに動いた。
「この岩棚の下の斜面で、雪崩に巻き込まれた。それを、この竜が掘り出した。お父様は、雪の中で、竜が何か言っているのに気づいた。でも、言葉は聞き取れなかった」
隠しルートの第三章に、私が書いた場面だ。
竜がヒロインに、昔、槍を持って来た男の話をする。
人を憎みきれない理由として。
「だから、誰にも話せなかった。話しても、信じてもらえないから。竜に助けられたなんて言ったら、騎士団で笑われるから」
父さんの声が、頭の中で重なった。
竜に助けられたなんて言ったら、村じゅうに笑われる。
吹雪の峠で、竜の影を見たという父さん。
同じだ。
竜に助けられた人は、みんな黙ってしまう。
私は、竜を振り返った。
「ヴェルグ。そのとき、お父様に何と言ったんですか」
◇
竜は、長いあいだ黙っていた。
金色の目が、片膝をついたカイルの銀の髪を見下ろしている。
二十年前、雪の中から掘り出した男の顔を、思い出しているのかもしれなかった。
それから、ゆっくりと、吠えた。
さっきの威嚇とは、まるで違う声だった。
低くて、静かで、一つ一つの区切りを置いていくような吠え声。
四拍、休み、三拍、休み。
それが、何度も繰り返される。
騎士たちには、ただの長い唸り声に聞こえているのだろう。
何人かが、怯えたように槍を握り直した。
「でたらめだ」
列の中ほどで、誰かが吐き捨てるように言った。
「竜が吠えてるだけだ。娘が、それらしいことを言ってるだけじゃないか」
「黙れ」
ロルフが、振り返りもせずに言った。
低い声だった。
吐き捨てた騎士が、口をつぐむ。
「聞くだけ聞け。槍を投げるのは、それからでも遅くねえ」
私は、竜の吠え声を一語ずつ、人の言葉に直した。
「帰れ。お前を待つ子がいるのだろう。槍は置いていけ。二度と、ここへ来るな」
岩棚の上に、風が戻ってきた。
雪の粉が、さらさらとカイルの肩に降りかかる。
カイルは、動かなかった。
「……待つ子」
小さな声だった。
「二十年前なら、俺は、まだ生まれていない」
それきり、黙った。
誰を待たせていたのか、と問うような背中だった。
それから、カイルは、ゆっくりと立ち上がった。
構えていた剣の切っ先が、下がっていく。
雪に触れるところまで、下りた。
灰色の目は、折れた槍を見つめたまま動かない。
後ろの騎士たちが、顔を見合わせた。
「団長……」
ロルフが、低く呼んだ。
カイルは、振り返らなかった。
「父は、死ぬまでこの山の話をしなかった」
カイルの声が、かすかに震えた。
「ただ一度だけ、酔ったときに言った。北の竜は、泣いているように吠える、と」
竜が、喉の奥で小さく鳴った。
吠え声ではなかった。
言葉でもなかった。
大きな頭が、ほんの少しだけ、下がった。
誰も、何も言わなかった。
ロルフが、ゆっくりと槍の穂先を下げた。
それを見て、隣の騎士が下げた。
その隣も。
いちばん端の若い騎士が、最後に、震える手で槍を雪に立てた。
二十本の槍が、下りた。
カイルが、初めて竜の顔をまっすぐに見上げた。
「竜よ。……父を、助けたのか」
竜は、短く吠えた。
四拍と三拍、一区切りだけの、そっけない吠え声だった。
カイルが、私を振り返る。
「……見れば分かるだろう、と」
私が訳すと、ロルフが変な咳をした。
笑いをこらえたのだと思う。
カイルは、笑わなかった。
回想の一枚絵は、もう、どこにもなかった。
◇
けれど、カイルは剣を鞘に収めなかった。
まだ迷っている。
当然だ。
彼には、竜の言葉が聞こえない。
聞こえるのは、宿屋の娘が「竜がそう言った」と言う声だけだ。
折れた槍と、青い布と、父親の一言。
信じたい理由はある。
けれど、騎士団長が竜の前で剣を収めるには、まだ足りない。
カイルは、私に向き直った。
「娘」
灰色の目が、まっすぐに私を見る。
もう、聞き分けのない子どもを見る目ではなかった。
「お前の言うことが本当なら、呪いを解く方法はないのか」




