第8話 予算とやらが足りずに
竜の声が、小さくなっていた。
家より大きな体を雪の上に伏せて、金色の目だけをこちらに向けている。
出来が悪かったのか。
その問いの重さが、岩棚の冷たい空気にゆっくり沈んでいく。
私は、首を振った。
「出来は、悪くなかったと思います。読んだ人たちは、みんな褒めてくれました」
それは本当だった。
開発の途中で、隠しルートの原稿を読んだ同僚たちがいた。
絵を描く人も、音を作る人も、仕様書を書く人も。
休憩室で私をつかまえて、竜の独白のところで泣いたと言ってくれた人もいた。
「でも、時間とお金が足りなかった」
「時間と、金」
竜は、その二つの言葉を、珍しい石でも転がすように繰り返した。
「物語を世に出すには、たくさんの人の手がかかるんです。絵を描く人、音を作る人、全部をつなぐ人。あなたの物語を最後まで仕上げるには、二か月と、お金が少し足りなかった」
「それで」
「だから、いちばん後ろにあったあなたの章から、削られました」
言いながら、喉の奥が痛くなった。
会議室の白い机。
目を合わせないディレクター。
資料の束の、いちばん下に挟まれていた竜の章。
いちばん後ろにあったから、いちばん先に切られた。
それだけの理由だった。
「それで、お前はどうした」
「家に帰って、原稿を全部、箱にしまいました」
「捨てなかったのか」
「捨てられませんでした。いつか、どこかで使えるかもしれないと思って」
箱は、部屋の隅に置いたままだった。
次の作品の締め切りに追われて、一度も開けなかった。
開ける前に、私は会社の床で倒れた。
あの箱が、その後どうなったのかは知らない。
竜は、しばらく考えていた。
それから、ふん、と鼻から白い息を吐いた。
「人の世は、百年たっても変わらんな」
「え?」
「王都の魔術師も、私の呪いを解く金が惜しいと言った」
私は、目を瞬かせた。
「そうなんですか」
「そうだ。呪いをかけに来た魔術師の供が、帰りの山道で話していた。私の声は吠え声になったが、耳はそのままだったからな。呪いをかけた者が死ねば、解く術を知る者はいなくなる。解く方法を書いた書物は、王都に一冊だけあった。写本を作れと言った者もいたそうだが、予算とやらが足りずに、写本されなかったそうだ」
「その一冊は」
「さあな。百年前の話だ。燃えたか、黴びたか、どこかの棚の奥で眠っているか」
私は、額に手を当てた。
そんな設定は、書いた覚えがない。
私の書いた隠しルートでは、呪いをかけた魔術師はただの悪役で、名前すらなかった。
解き方を書いた書物なんて、出てこない。
なのに、予算が足りずに、写本されなかった。
あまりにもこの世界らしくて、少しだけ泣きそうになった。
誰かの都合で、誰かの言葉が、棚の奥にしまわれる。
前の世界でも、この世界でも。
「笑うところか、泣くところか、分からん顔をしているな」
「……両方です」
「器用な娘だ」
竜は、また喉の奥で笑った。
それから、ふと笑いを収めて、私の顔をじっと見た。
「もう一つ聞く。最初の挨拶の返し方は、どこで覚えた」
「白い冬に、の……ですか」
「あれは、竜の守り人が人の友に贈る挨拶の、返し方だ。守り人と、守り人が友と認めた者しか知らない」
「私が、書きました。竜の言葉の決まりを作るときに」
「そうか」
竜は、遠いものを見るような目をした。
「百年前、最後にあれを返したのは、蜂蜜酒を運んできた子どもだった。小さな手で瓶を抱えて、震えながら、ちゃんと最後まで言った」
それきり、竜は黙った。
その子どもがどうなったのか、私は聞けなかった。
◇
東の空が、白くなり始めていた。
星が一つずつ消えていく。
三百二十二のうちの、どれがあの名前の星なのか、私には分からない。
「人の王と竜の約束の話も、お前は書いたのか」
不意に、竜が言った。
「はい。竜は北の雪と嵐を人に告げ、人は守り人の村と、冬至の蜂蜜酒を守る」
「そうだ」
竜は、麓の方へ首を向けた。
まだ薄暗い谷の底に、ハルデ村の屋根が小さく固まっている。
「人の方は、とうに忘れたようだがな」
「……騎士団には、私が話します」
「人は、聞きたいことしか聞かん」
竜は、私の方を見ないまま言った。
「私の吠え声を、百年、誰も言葉だと思わなかった。思いたくなかったのだろう。言葉の通じない獣なら、恐れるだけで済む」
私は、何も言えなかった。
約束の話は、私が書いた。
けれど、その約束がなぜ百年前に破られたのか。
なぜ王都の魔術師が、北の山の竜の言葉を奪ったのか。
その理由を、私は書いていない。
隠しルートの中の呪いは、竜とヒロインを引き離すための仕掛けだった。
悪い魔術師が、悪いことをした。
物語に必要だったのは、それだけだった。
けれど、この世界の誰かは、本当にそれをやったのだ。
理由もなく、竜の言葉を奪う人はいない。
「ヴェルグ。呪いをかけた魔術師は、なぜ」
「娘」
竜が、私の言葉を遮った。
金色の目が、麓ではなく、岩棚の下の斜面に向いている。
大きな耳のひだが、ぴくりと動いた。
「客が来る」
◇
夜が、明けた。
日が山の端から上りきったころ、岩棚の下から、音が聞こえてきた。
金属の擦れる音だった。
雪を踏む、重い足音。
一つや二つではない。
規則正しく、こちらへ近づいてくる。
鎧の音だ。
私は、振り返った。
岩棚の縁まで駆け寄って、下をのぞき込む。
朝日に光る雪の斜面を、黒い点の列が登ってくる。
南の尾根の方角から。
先頭の一人の頭が、雪よりも白く光っていた。
銀の髪だ。
「三日後のはずじゃ……」
声が、勝手にこぼれた。
騎士団が登ってくるのは、三日後の明け方のはずだった。
地図の上で、カイルの指がそう決めていた。
回想でも、そうだった。
朝になったら、と父さんは言っていた。
母さんには、朝になってから俺が言う、と。
宿屋の朝は早い。
母さんは毎日、夜明けのずっと前に起きて、パンの生地をこねる。
起きてきた母さんに、父さんが話したのだ。
母さんは泣いた。
その宿には、二十一人の騎士が眠っていた。
暗いうちに宿を出て、南の尾根をまっすぐ登ってきたのだろう。
私が回り道をした古い山道ではなく、地図の上で決めてあった道を。
列の後ろで、穂先の覆いを外した槍が、朝日を弾いて光った。
背後で、竜がゆっくりと身を起こす気配がした。
長い尾が雪を払い、岩棚の上に白い煙が舞い上がる。
「ヴェルグ。戦わないで」
「……向こう次第だ」
低い声が、私の頭の上を通り過ぎていった。




