第7話 三百二十二番目の星
「知っているのは、名前だけではありません」
私は外套の内側から、蜂蜜酒の小瓶を取り出した。
雪の上に、そっと置く。
竜の目が、小瓶に吸い寄せられる。
大きな鼻先が、ひくりと動いた。
「あなたは、昔、この山の竜の守り人でした。人の言葉と竜の言葉を両方話せた、最後の一頭です」
竜は答えない。
金色の目が、小瓶から私に戻ってくる。
「百年前、王都の魔術師に呪いをかけられて、言葉を奪われました。あなたが何を言っても、人には吠え声にしか聞こえない」
「……なぜ、それを」
「それから、蜂蜜酒が好きです。冬至の夜にだけ、一口だけ飲むと決めています。守り人だったころ、村の子どもが毎年一瓶、届けてくれたから」
竜は、しばらく何も言わなかった。
それから、大きな爪の先で、器用に小瓶の栓を抜いた。
家の梁ほどもある爪が、指先ほどの栓をつまむ。
その手つきが、驚くほど優しかった。
竜は、瓶の口をひと舐めして、目を細めた。
「……冬至には、まだ早い」
「今年は特別です。騎士団が、ここへ来ます。団長さんは昨日、三日後の明け方と言っていました」
竜の目が、すっと細くなる。
岩棚の空気が変わる。
雪が、竜の吐く息でわずかに溶けた。
「また、槍か」
「はい。でも、戦わないでほしいんです。あなたが怒って山を下りたら、麓の村が焼けます」
「村を焼いたことなど、一度もない」
「知っています。まだ、一度も」
竜は、低く唸った。
今度の唸り声には、意味がなかった。
ただの、ため息のような音だった。
◇
「娘。お前は、なぜそこまで知っている。私の名も、呪いも、蜂蜜酒も。この百年、誰一人知らなかった」
私は、答えに迷った。
前世の話をして、信じてもらえるとは思えない。
けれど、この竜に嘘をつきたくはなかった。
私が書いた彼は、嘘が嫌いだった。
「……あなたの言葉を、書いた者だからです」
「書いた?」
「遠い場所で、あなたの物語を書きました。あなたが何を言い、何を思い、誰と話すはずだったか。全部、紙に書きました。でも、それは誰にも読まれないまま、しまわれてしまった」
竜は黙って、私を見下ろしている。
怒るかと思った。
笑うかと思った。
けれど竜は、静かに首を傾けただけだった。
「では、お前は知っているのか。私がこの百年、何を思っていたか」
「……はい」
「言ってみろ」
私は、隠しルートの第二章の独白を思い出した。
雪の岩棚で、竜が一人で語る場面だ。
いちばん時間をかけて書いた場面だった。
何度も消して、何度も書き直して、最後は明け方に泣きながら仕上げた。
「話しかけても、誰にも届かない。届かないなら、いっそ本当に獣になってしまえばいい。そう思った夜が、百年のうちに何度もあった。でも、そのたびに、麓の村の灯りを見てやめた。あの灯りの中に、昔、蜂蜜酒を運んでくれた子どもの孫がいるかもしれないから」
竜は、目を閉じる。
長いあいだ、そのままでいた。
やがて目を開けると、金色の目の縁が、少しだけ濡れていた。
「半分、当たっている」
「半分?」
「灯りを見てやめたのは、本当だ。だが、あの子どもの孫ではない。私が見ていたのは、宿屋の灯りだ」
私は、瞬きをした。
そんな台詞は、書いていない。
「山の麓に、白樺の看板の宿がある。冬になると、夜通し厨房の灯りが消えない。十年ほど前から、その灯りの中で、窓からこちらを見上げている娘がいた。毎晩だ」
私は、息が止まりそうになった。
六歳の冬に記憶を取り戻してから、私は毎晩、厨房の窓から山を見ていた。
竜が下りてこないか、確かめるために。
見張っていたつもりだった。
見られているとは、思わなかった。
「初めのうちは、物好きな子どもだと思った。五度目の冬に、私が山を下りないか見張っているのだと気づいた。だから、夜ごとに吠えてやった。ここにいる、下りはしない、とな」
竜は、鼻から白い息を吐いた。
「今夜は、見ていなかったな」
「……え」
「十年で初めてだ。窓に灯りはあるのに、娘が山を見ていない。だから、どうしたのかと吠えた」
宵のうちの、語尾の上がった吠え声。
父さんと二人で聞いた、あの短い声。
あれは、私に向けた声だったのだ。
「そうしたら、笛が返ってきた。あの笛は前から聞こえていたが、今夜は区切りが合っていた。下手な笛だったがな。百年で初めて、私の声に、言葉の形で何かが答えた」
竜は、少しだけ目を細めた。
笑ったのだと、少し遅れて分かった。
「お前が書いていない百年も、あるのだな」
「……はい」
「そうか。それは、少し愉快だ」
竜は、喉の奥で笑った。
百年ぶりの笑い声は、雪崩の前触れのように低くて、けれど、どこか子どもっぽかった。
それから竜は、雪の上に顎を載せて、私と目の高さを合わせた。
金色の目が、すぐそこにある。
私の顔が、まるごと映るくらいの大きさだった。
「では、書いた者に聞こう。私は本来、何を話すはずだった」
「たくさんです。最初は、村の子どもに雪崩の見分け方を教える話。それから、昔の守り人仲間の話。星の名前の話。人の王と竜が交わした約束の話」
「星の名前は、私の得意な話だ」
「知っています。あなたは北の空の星を、全部で三百二十一個、名前で呼べます」
「三百二十二だ」
竜は、きっぱりと言った。
私は、目を瞬かせる。
「この百年で、一つ増えた。四十年ほど前に、北の空に新しい星が灯った。誰も名を付けないので、私が付けた」
私は、思わず北の空を見上げた。
夜明け前の空に、まだ星がたくさん残っている。
登ってくるとき、数えようとしてやめた星だ。
あの中の一つに、私の知らない名前が付いている。
「……なんて名前ですか」
「教えない」
「え」
「書いた者でも、知らないことはあっていい」
私は、思わず笑ってしまった。
私が書いた竜は、もう少し素直な性格だったはずだ。
聞かれたことには、まっすぐ答える竜だった。
百年分、ひねくれたのかもしれない。
竜は満足そうに鼻を鳴らした。
けれど、すぐに、その目から笑いが消えた。
「一つ、分からないことがある」
「何でしょう」
竜は、少しだけ首を引いた。
それから、雪の上に目を落とした。
「私の物語は、なぜしまわれた。出来が悪かったのか」




