第6話 金色の目
雪明かりの山道を登る。
炭焼き小屋の脇から入って、林の中の細い道をたどる。
夏には薪を拾いに来る道だ。
冬に、それも夜に入るのは、生まれて初めてだった。
雪は膝の下まで積もっている。
一歩ごとに、靴が沈む。
父さんの杖を前に突いて、雪の固さを確かめながら進む。
高いところは、平気だ。
前世ではロケハンと称して、よく一人で山に登った。
竜の岩棚の場面を書くときも、わざわざ雪の残る春の山に登って、尾根の風の音を録った。
あのときの音を、今、本物の山で聞いている。
怖いのは、高さではない。
自分の書いた台詞が、この世界で本当に通じるのかどうかだ。
◇
一つ目の沢は、雪に埋もれて、どこが水なのか分からなかった。
杖の先で探りながら、石の上を選んで渡る。
二つ目の沢で、足を滑らせた。
体が横に傾く。
雪の下の石が、靴の底でぐるりと回る。
とっさに杖を突くと、鉄の石突きが岩の割れ目に噛んで、がつんと止まった。
私は杖にしがみついたまま、しばらく動けなかった。
足の下で、凍りかけた水が細く鳴っている。
父さんの言ったとおりだった。
雪の山道なら、この杖がいちばん丈夫だ。
「……ありがとう、父さん」
声に出したら、息が白く散った。
林を抜けると、急に空が広くなった。
森の木がなくなって、雪の斜面がまっすぐ上へ延びている。
見上げると、山頂の黒い岩の影が、星空を切り取っていた。
北の空には、星が多い。
村の空よりも、ずっと多い。
数えようとして、すぐにやめた。
斜面を、ゆっくり登る。
息が苦しい。
外套の下は汗をかいているのに、顔は凍りそうに冷たい。
何度も、唇だけで台詞をなぞる。
白い冬に、名を呼ぶ者はいない。
けれど私は――。
そこで止める。
続きは、竜の前で言う。
通じなかったら、どうなるのだろう。
竜は宿屋の娘など知らない。
爪の一振りで、私を岩棚から落とすかもしれない。
三日後に岩棚へ着いた騎士団が、雪の中から父さんの杖を見つける。
母さんは、それを抱いて泣く。
そこまで考えて、私は首を振った。
考えるのは、台詞が通じなかったときでいい。
◇
岩棚に着いたのは、夜明けの少し前だった。
東の空の端が、ほんの少しだけ薄くなっている。
風が止んでいる。
さっきまで頬を切っていた風が、嘘のように消えていた。
広い岩棚だった。
宿の広場が、まるごと二つは入りそうなくらい。
その奥の雪の上に、黒い山のような影が横たわっている。
最初は、岩だと思った。
影が、ゆっくりと動く。
雪が、さらさらと崩れ落ちる。
金色の目が、二つ開く。
大きい。
画面で見るのとは、まるで違う。
鱗の一枚が、私の背丈ほどもある。
立ち絵の竜は、画面の中で胸から上しか映っていなかった。
背景の岩棚も、こんなに広く描かれてはいなかった。
本物の竜は、頭の先から尾の先まで、どこまでも続いていた。
竜は首をもたげ、私を見下ろして、口を開く。
低い音が、岩棚を震わせる。
吠え声だ。
村人が百年聞いてきた、意味の分からない吠え声。
足の裏から、骨まで響いてくる。
逃げたい、と体じゅうが言っている。
杖を握る手が、手袋の中でがくがく震えた。
けれど私には、その音の区切り方に覚えがあった。
この距離では、こだまがない。
音が崩れずに、一つずつ立っている。
四拍、休み、三拍、休み。
私が書いた、古竜語の文法だ。
十年、窓辺で数えきれなかった区切りが、今ははっきり数えられる。
数えられれば、言葉になる。
古竜語の語彙表を作ったのも、私だ。
最初の吠え声は、速すぎて区切りしか取れなかった。
最後の一語だけが、耳に残った。
――帰れ。
隠しルートの竜は、最初にこう言うはずだった。
『白い冬に、よく来た。私の名を呼ぶ者よ』。
私は、そう書いた。
けれど目の前の竜は、帰れ、と言った。
焼くでも、食べるでもなく。
ここは寒いから帰れ、とでも言うように、首を少しだけ下げて。
金色の目が、近づいてくる。
鼻先が、私の頭の上で止まった。
熱い息が吹きつけて、外套の肩の雪が溶けた。
台詞データが入っていないから、音しか出ない。
でも、中身は、ちゃんとある。
私は、深く息を吸った。
冷たい空気が、肺の奥まで刺さる。
隠しルートの最初の場面。
雪の岩棚で目を覚ました竜が、最初に口を開く。
それに、ヒロインが返す。
竜の守り人が、人の友に最初に贈る挨拶への、返し方だ。
その一行を書いた夜のことを、覚えている。
資料集の古竜語の項目を書き終えて、明け方の会社で一人、声に出して読んだ。
いつか誰かが、この一行を竜に返してくれる日のために。
その誰かは、ヒロインのはずだった。
竜の声を演じる人も、もう決まっていた。
収録の日取りまで決まっていた。
ルートが削られて、その日は来なかった。
製品版の竜の吠え声は、効果音の担当が獣の声を何種類も重ねて作ったものだ。
仕上がりを聞いたとき、私は会社のトイレで少しだけ泣いた。
言葉の入っていない声は、こんなにも何か言いたそうに聞こえるのかと思った。
私は、杖を雪に突き立てて、背筋を伸ばした。
「白い冬に、名を呼ぶ者はいない。けれど私は、あなたの名を知っている。ヴェルグ」
吠え声が、止まる。
雪の上に、静寂が落ちる。
金色の目が、わずかに見開かれた。
竜は、動かなかった。
首をもたげたまま、私を見下ろしている。
吐く息が、白い霧になって岩棚に流れていく。
長い、長い沈黙だった。
東の空が、もう少しだけ明るくなった。
やがて、竜の口から、低い音がこぼれた。
さっきとは違う。
ゆっくりとした、一語ずつ確かめるような区切りだった。
四拍、休み、三拍。
その音が、私の耳の中で、するりと人の言葉に変わった。
「……その言葉を、どこで知った」
声は、私が想像していたより、ずっと若かった。
それから、ずっと掠れていた。
百年、誰とも話していない喉の音だった。




