第5話 父さんの杖
夜更けに片づけを終えて、私は厨房の窓辺に座った。
広間からは、騎士たちのいびきが聞こえてくる。
二十人近い騎士のいびきは、思っていたよりずっとうるさい。
ロルフの言っていた「いびきの静かなやつ」が二階に上がった理由が、よく分かった。
母さんは、先に休んだ。
一日じゅう鍋をかき回して、階段を上がるときには足がふらついていた。
私は膝の上の毛布を握る。
頭の中で、何度も同じことを数える。
岩棚に着いたら、最初に何と言うか。
それは、もう決めてある。
隠しルートの最初の場面で、ヒロインが竜に返す台詞だ。
十年、一日も忘れたことがない。
声に出さずに、唇だけで言ってみる。
白い冬に、名を呼ぶ者はいない。
そこまで言って、続きを飲み込む。
この先は、竜の前でしか言わないと決めている。
背後で、床板が鳴った。
振り返ると、父さんが湯気の立つ杯を二つ持って立っていた。
一つを私の前に置いて、何も言わずに隣に座る。
温めた山羊の乳に、蜂蜜を溶かしたものだった。
小さいころ、熱を出すたびに作ってくれた味だ。
しばらく、二人で黙って杯をすすった。
暖炉の火が落ちて、厨房が少しずつ冷えていく。
「リタ。お前、今夜、山に行くつもりだろう」
私は、杯を取り落としそうになった。
「……どうして」
「十年、毎晩あの窓から山を見ていた娘が、今夜だけ見ていない」
父さんは、窓の方へ顎をしゃくった。
私は、はっとして窓を見た。
本当だ。
窓辺に座ってから、一度も山を見ていない。
頭の中の山道ばかり見ていた。
「支度のことで、頭がいっぱいなんだろう」
父さんは杯をすすった。
◇
そのとき、山の上から、低い音が降ってきた。
竜の吠え声だった。
いつもより短い。
何かを問いかけるような、語尾の上がった音だった。
窓まで届く声は、相変わらずこだまで崩れている。
区切りは数えられない。
すると、どこかで、細い音が鳴った。
笛の音だ。
村の東の、鍛冶屋の方角から。
小さな鉄の笛が、竜の吠え声をたどたどしく真似している。
私は、息を止めて数えた。
一、二、三、四。
休み。
一、二、三。
四拍、休み、三拍。
こだまで崩れた竜の声を、トマは耳だけでなぞって、区切りを拾っていた。
私が十年かけて数えきれなかったものを、八歳の子どもが笛で吹いている。
笛はそこで途切れた。
山からは、もう何も返ってこなかった。
けれど、私には、山の上の誰かが黙って耳を澄ませているように思えた。
「鍛冶屋の坊主か」
父さんが、ぽつりと言った。
「ああやって、ときどき吹いてる。竜に返事してるんだと、本人は言ってたな」
「……知ってたの」
「宿屋の主人だからな。村のことは、だいたい耳に入る」
◇
父さんは杯を置いて、私の方を見ないまま言った。
「止めても行くなら、止めない。ただ、俺の杖を持っていけ。雪の山道なら、あれがいちばん丈夫だ」
「父さん」
「母さんには、朝になってから俺が言う。泣かれるのは慣れてる」
父さんは立ち上がって、勝手口の脇に立てかけてあった杖を取ってきた。
樫の木の、黒光りする杖だった。
先には鉄の石突きがはめてある。
父さんが若いころ、山向こうの町まで歩いて仕入れに行っていたときの杖だ。
それから、地下の貯蔵庫に下りていって、小さな瓶を一本持って戻ってきた。
去年の秋に仕込んだ、蜂蜜酒の小瓶だった。
「ばあさんの話が本当なら、手ぶらで行くもんじゃないだろう」
私は、目を見開いた。
「父さんは、あの話、信じてるの」
「さあな」
父さんは、窓の外の山に目をやった。
「若いころ、峠を越えて仕入れに行った帰りに、吹雪に遭ったことがある。峠の真ん中で、上から竜の声がした。見上げたら、雲の下を大きな影が回ってた」
「……竜が?」
「吠えながら、ぐるぐる回ってた。俺は怖くなって、来た道を引き返した。その晩、峠に雪崩が落ちた。あのまま進んでたら、俺は埋まってた」
父さんは、杯の底に残った乳を見つめた。
「誰にも話してない。竜に助けられたなんて言ったら、村じゅうに笑われる」
「母さんにも?」
「母さんには、言った。笑われた」
私は、思わず笑ってしまった。
父さんも、少しだけ口の端を上げた。
父さんは、何もかも分かっているわけではない。
私がなぜ山に行くのかも、竜に何を言うつもりなのかも、知らない。
それでも、私が何をしに行くのかだけは、ちゃんと見ていた。
「父さん。……何も、聞かないの」
父さんは少しだけ黙って、それから杖と瓶を私の手に押しつけた。
「お前は六つの冬から、何か知ってる顔をしてる。何を知ってるのかは、知らん。聞いても、たぶん俺には分からん」
大きな手が、私の頭に一度だけ載った。
「だが、お前が十年、毎晩何を心配してたかは知ってる。この村のことだろう」
私は、うなずくことしかできなかった。
父さんは、前世の記憶のことを知らない。
それでも、十年分の私を、ちゃんと見ていてくれた。
回想の焼け跡に、宿屋の主人はいなかった。
看板が一枚、落ちていただけだ。
◇
二階へ外套を取りに上がると、母さんの部屋の戸が少しだけ開いていた。
寝息が聞こえる。
疲れきった、深い寝息だった。
戸の隙間に向かって、声を出さずに言う。
ごめん、母さん。
朝になったら、きっと泣かせる。
外套を二枚重ねて、父さんの手袋をはめる。
蜂蜜酒の瓶を、内側の物入れに押し込む。
勝手口の戸を開けると、刺すような冷たい風が頬を打った。
雪明かりで、外は思ったより明るい。
裏庭の向こうに、白い山が黒い空を背負ってそびえている。
振り返ると、父さんが厨房の灯りの中に立っていた。
何も言わずに、片手を少しだけ上げる。
私は、杖を握り直した。
夜明けまでに、岩棚に着く。
竜が目を覚ます前に。
騎士団の槍が、山に向く前に。
炭焼き小屋の脇まで来て、一度だけ振り返った。
村は、雪の中に沈むように眠っている。
どの家も、もう灯りを落としていた。
白樺亭の厨房の窓にだけ、小さな灯りが一つ残っている。
父さんが、まだ起きているのだ。
山の上から見たら、あの灯りはどんなふうに見えるのだろう。
そんなことを、ふと思った。
私は前を向いて、雪の山道に最初の一歩を踏み入れた。
思っていたより、ずっと大きな音がした。




