第44話 帰り道
「今日は晴れ。北へ向かう風が吹く。空の旅には、いい日だ」
竜は、王宮前の広場で、最後の空を告げた。
私は、板に書いた。
明日からは、テオが星と一緒に、この板を書くことになっている。
広場には、見送りの人が集まっていた。
ロルフと、岩棚に登った騎士たち。
ヨナスは、もう泣いていた。
パン屋のおかみさんが、焼きたてのパンの包みを、竜の爪の横に置いていった。
竜は、パンは食べない。
けれど、何も言わずに、包みを見下ろしていた。
「嬢ちゃん。おかみさんの煮込み、また食いに行くぜ。秋の、荷馬車の季節にでもな」
「待ってます。母さんにも、言っておきます」
ロルフは、髭の中で、にっと笑った。
◇
殿下は、広場の端に立っていた。
西の塔から、一人で歩いてきたのだという。
日の光の中で見る殿下は、塔の中よりも、ずっと色が白かった。
眩しそうに、目を細めていた。
「塔の階段を、下りてきた。全部で、百二十七段あった。数えたことがなかったんだ」
「上るときは、もっと多く感じますよ」
「そうだろうね」
殿下は、帳面を一冊、私に差し出した。
新しい、白い帳面だった。
「君の分だ。北の空を書いたら、鳩で送ってくれ。私は、王都の空を書いて、送り返す」
「はい」
「それから、たまには、空以外のことも」
リリアは、侍女たちを連れずに、一人で来ていた。
私の手を取って、ぶんぶんと振った。
「リタさん。わたし、手紙、書きます。字は、まだ下手だけど。神殿では、あんまり習わなかったから」
「下手でいいです」
「自分の字で、書きます」
リリアは、そう言って笑った。
台本のどこにもない、少し崩れた笑い方だった。
テオは、少し離れたところから、深く頭を下げていた。
胸に、もう銀の星の留め金はなかった。
院長に一人ずつ付けてもらった留め金だと、昨日、テオは言っていた。
◇
最後に、カイルが来た。
父君の布を結んだ槍を、肩に立てかけて。
竜の首の付け根に、父さんが巻いた馬具の革紐を、黙って締め直してくれた。
「手紙を書く」
「はい。……私も、書きます。短い手紙かもしれませんけど」
前にも、同じことを言った。
王都に着いた日に、冬に書いた短い返事のことで。
カイルは、私の顔を見た。
それから、口の端が、ゆっくりと持ち上がった。
「短くていい」
カイルが、笑った。
短くて硬い、いつもの言い方のまま。
目尻に、小さな皺が寄っていた。
灰色の目が、春の日差しの中で、少しだけ明るく見えた。
騎士団長カイル・ヴァレンの立ち絵は、三枚あった。
真顔と、怒り顔と、遠くを見る顔。
笑い顔の差分は、予算が足りずに、作られなかった。
その顔も、私は書いていない。
◇
竜が、翼を広げた。
広場の砂が舞い上がって、見送りの人たちの声が、下へ遠ざかっていった。
私は、革紐を握りしめた。
胃が、ひっくり返りそうになった。
やっぱり、空は、ちょっと苦手だ。
下を見ると、王宮の屋根が、みるみる小さくなっていく。
占星院の塔も、西の塔も、指の先ほどになった。
前を見ろ、と父さんは言った。
私は、顔を上げた。
北の空が、どこまでも広がっていた。
その下に、山と、森と、川。
遠くの山の峰に、まだ雪が残って、白く光っていた。
あの山の向こうに、白樺亭がある。
不思議と、胃が、少しだけ静かになった。
下を見ているときより、前を見ているときの方が、空は怖くなかった。
父さんは、それを知っていたのだろうか。
若いころ、父さんは、吹雪の峠で竜の影を見たことがある。
吠えながら、峠の上をぐるぐる回る影。
父さんは、引き返した。
その峠に、雪崩が落ちた。
あのとき、父さんは、足元ではなく、空を見上げていたのだ。
怖いものから目を逸らさずに、前を。
だから、あの朝、私にそう言ったのかもしれない。
◇
その夜は、行きと同じ山の上で眠った。
竜の翼の下は、温かかった。
見上げると、王都では半分しか見えなかった星が、空いっぱいに散らばっていた。
竜は、喉の奥で、星の名前を数えていた。
古竜語の区切りで、一つずつ。
数は、三百二十一で止まった。
冬祭りの歌と、同じところで。
「三百二十二番目は」
「村に帰ったら、教える」
竜は、目を閉じたまま言った。
「約束だ。竜は、約束を破らん。人とは違ってな」
「人も、結び直しましたよ。王都で」
「そうだったな」
竜は、少しだけ笑った。
私は、その笑い声を聞きながら、眠った。
◇
翌日の昼過ぎ、見慣れた尾根が見えた。
炭焼き小屋。
その脇の大岩。
広場と、白樺の看板。
竜が、広場の端の雪解けの草地に降りた。
最初に駆けてきたのは、トマだった。
茶色い髪を振り乱して、首の革紐の笛を口にくわえて。
ぴい、ぴい、ぴい、ぴい。
休み。
ぴい、ぴい、ぴい。
四つと、三つ。
古竜語の区切りで、トマは笛を吹いた。
「リタ姉ちゃん! 竜! おかえり!」
「笛で、何て言ったの」
「おかえり! 竜に教わった!」
竜は、トマを見下ろして、目を細めた。
「小さいの。区切りが、少し速い」
「練習した!」
トマは、それだけ叫んで、今度は鍛冶屋の方へ走っていった。
おかえり、おかえり、と叫びながら。
白樺亭の入口の脇の板に、字が書いてあった。
私の字ではなかった。
太くて、角ばって、少し傾いた字。
『今日の空 たぶん晴れ』
父さんの字だった。
その下に、もっと前の日の分が、消しきれずに薄く残っていた。
たぶん雨。
たぶん曇り。
たぶん晴れ。
竜は、首を伸ばして、板をじっと見た。
それから、空を見上げた。
「当たっている」
白樺亭の扉が、ばん、と開いた。
母さんが、エプロンのまま飛び出してきた。
その後ろから、父さんが、ゆっくりと出てきた。
母さんに抱きつかれて、息ができなくなりかけたとき、父さんの声がした。
「おかえり」
「……ただいま」
父さんは、それだけ言って、私の頭に手を置いた。
帰ってきたら、聞かせろ。
そう言った人は、今日は、何も聞かなかった。
その肩の向こうで、ハンナおばあさんが、隣の家の戸口から、私を手招きしていた。




