第45話 三百二十二番目の星
「一番に話しておくれと、言うたじゃろう」
ハンナおばあさんは、暖炉の前の椅子に、毛布をかけて座っていた。
しばらく見ないうちに、少しだけ小さくなった気がした。
私は、その足元に座って、話した。
竜の背で見た、山と森と川。
王都の広場と、占星院の細い塔。
塔の上の王子と、自分の声を見つけた聖女。
満月の夜のこと。
竜が、人の王と、約束を結び直したこと。
前世のことだけは、話さなかった。
それは、いつか、父さんに話すと決めていた。
帰ってきたら聞かせろ、と言った人に。
ハンナおばあさんは、ときどき目を閉じて、ときどき笑って、全部聞いてくれた。
「そうかい。冬至の酒を、王さまも一口か」
「一年に、一口だけだそうです」
「竜らしいのう」
ハンナおばあさんは、くつくつと笑った。
それから、暖炉の火を見ながら、ぽつりと言った。
「あんたのひいばあさんが、生きとったら、喜んだろうにのう」
◇
「ひいおばあちゃんは、どんな人だったんですか」
前から、聞いてみたかった。
毎晩、厨房の窓から山を見ていた人。
何を見ているのか聞かれて、内緒だと笑った人。
「小さい人じゃった。声も小さくてな。けど、宿を開いたのは、あの人じゃ。ひいじいさんは、言われるままに看板を彫っただけじゃと、よう笑うとった」
ハンナおばあさんは、指を折って数えた。
「エルナばあさんが死んだのは、もう四十年も前じゃ。冬のさなかでのう。宿を開いた人じゃから、村じゅうで送った。鐘を、一晩じゅう鳴らしてな」
エルナ。
その名前を、私は知っていた。
白樺亭のいちばん古い帳簿の、最初の頁。
太い字の下に、細くて、一画ずつ確かめるように書いた字。
すっかり、忘れていた。
「字は、大人になってから習うたそうじゃ。最初の帳簿に、自分の名だけは自分で書きたいと言うてな」
弔いの鐘が、一晩じゅう鳴った冬。
心臓が、どくん、と鳴った。
冬至の夜に、竜が言っていた。
四十年ほど前の冬、麓の村で、弔いの鐘が一晩じゅう鳴った。
その夜、北の空に、新しい星が一つ灯った、と。
◇
日が暮れると、私は、炭焼き小屋の上の尾根へ登った。
竜は、尾根の上で、首を北の空に向けていた。
冠のような七つの星が、もう光りはじめていた。
その下に、小さな星が一つ。
「約束だったな」
竜は、私が隣に座るのを待って、言った。
「三百二十二番目の星の名は、エルナだ」
風が、白樺の森を渡っていった。
「百年前、岩棚に蜂蜜酒を運んできた子どもだ。言葉を奪われる前の、最後の冬至の晩だった。小さな手で瓶を抱えて、震えながら、挨拶の返しを最後まで言った。名を聞いたら、エルナ、と答えた」
竜の声は、静かだった。
「次の冬、私の言葉は吠え声になった。村へ下りても、誰にも届かなかった。……あの子が、それからどうなったのか、私は知らない」
「四十年前の、鐘の夜は」
「誰の鐘かは、分からなかった。だが、あの子も、もう年寄りのはずだった。だから、あの夜に灯った星に、あの子の名を付けた」
竜は、小さな星を見上げた。
「違っていても、構わなかった。誰かが、あの名を呼び続けていればいいと思った。私しか、呼ぶ者はいなかったが」
◇
私は、膝を抱えた。
声が、うまく出なかった。
「違って、いません」
竜が、私を見た。
「その鐘は、エルナの鐘です。白樺亭を開いた人の。……私の、ひいおばあちゃんの」
竜は、動かなかった。
金色の目が、ゆっくりと見開かれていった。
岩棚の朝、私が挨拶を返したときと、同じ目だった。
「エルナは、宿を開いてから、毎晩、厨房の窓から山を見ていたそうです。何を見ているのかと聞かれて、内緒だと笑ったって」
竜は、麓を見下ろした。
白樺亭の厨房の窓に、灯りがともっていた。
母さんが、明日の仕込みをしているのだろう。
七十年あまり、冬になると夜通し消えなかった灯りだ。
「私が見ていたのは、宿屋の灯りだと、言ったな」
「はい」
「あの灯りの中に、あの子どもの孫がいるかもしれない、とお前は書いた。私は、孫ではない、と言った。宿屋の灯りは、あの子とは関わりのない灯りだと思っていた」
竜の喉の奥で、低い音が鳴った。
笑っているのか、泣いているのか、私には分からなかった。
「孫では、なかった。ひ孫だった」
「半分、当たっていましたね」
「……そうだな」
竜は、首を北の空へ戻した。
冠の下の、小さな星へ。
それから、尾根の上で、大きく息を吸った。
「エルナ」
村じゅうに届く声だった。
吹雪の晩に、行商人を呼び戻した声。
毎朝、空を告げる声。
「お前のひ孫が、帰ってきた。お前の窓から、私を見ていた娘だ」
麓で、いくつかの窓が開く音がした。
隣の家の窓に、小さな灯りが一つ、ともった。
ハンナおばあさんの窓だった。
竜は、それきり黙った。
長いこと、厨房の灯りを見ていた。
百年。
言葉を奪われた竜は、毎晩、麓の灯りを見て、獣になるのをやめた。
その灯りの中で、言葉を交わした最後の子どもが、毎晩、山を見上げていた。
お互いに、それを知らないまま。
私は、それを書いていない。
誰も、書いていなかった。
◇
その夜、自分の部屋の窓から、山を見た。
尾根の上で、竜が吠えた。
四つ。
休み。
三つ。
おやすみ。
私は、窓から手を振った。
それから、殿下にもらった白い帳面を開いた。
今日の空。
晴れ。
三百二十二番目の星の名前。
全部、書き留めた。
約束したとおりに。
書き終えて、ふと、前世の箱のことを思った。
竜の台本。
削られた、もう一つの結末。
それから、企画書の、人物の欄。
四番目に、エドガーと書いた。
その下に、まだ、名前がある。
台詞を一行ももらえないまま消えた人たちの名前が、あと、いくつも。
窓の外で、三百二十二番目の星が、小さく瞬いた。
↓第4章の番外編「測れない声」(星読みテオ視点。十の冬、峠で測り続けた一声)
https://note.com/wise_turtle184/n/n382ef1ba61f8?app_launch=false




