第43話 王都の朝
「今日は晴れ。昼から、南の風。夜に、少し雲が出る」
満月の翌朝、竜は、練兵場ではなく、王宮前の広場で空を告げた。
国王の言いつけだった。
広場の真ん中に、新しい板が一枚、立てられていた。
白樺亭の入口の脇の板と、同じくらいの大きさだ。
私は、炭で、その板に書いた。
『今日の空 晴れ。昼から南の風。夜に少し雲』
広場に集まった人たちが、板と、竜と、私を、代わる代わる見ていた。
パン屋のおかみさんが、首を傾げた。
洗濯籠を抱えた娘が、空を見上げた。
「竜が、天気を言うのかい」
「はい。北の村では、毎朝です」
「当たるのかい」
答えたのは、私ではなかった。
「外れたことは、ない」
竜が、首を下げて言った。
おかみさんは、腰を抜かしかけて、それから、ぷっと吹き出した。
◇
昼前、大広間に、王宮じゅうの人が集められた。
南の高窓から、光が六本、床に落ちていた。
お披露目の日と同じ広間だ。
けれど、玉座の前に立っている人たちは、あの日とは違った。
院長は、騎士二人に挟まれて立っていた。
杖は、持っていなかった。
眼鏡の奥の目は、静かに、床の一点を見ていた。
テオが、国王の前に進み出た。
銅の筒を、抱えていなかった。
「十年前の冬、第一王子殿下についての予言を、私は、院長の言いつけで書き写しました」
テオの声は、震えていた。
けれど、止まらなかった。
「あの冬、星には、何も出ておりませんでした。院長が、そう書け、と」
大広間が、ざわめいた。
「去年の秋の、北の竜が山を下りるという予言も、同じです。星ではなく、竜殿の声の数字を見て、院長がお決めになりました。……竜殿の声が、戻る前に、と」
国王は、目を閉じて聞いていた。
それから、院長に目を向けた。
「申すことは、あるか」
院長は、顔を上げた。
いつものように、柔らかく笑った。
「星は、嘘をつきません、陛下。嘘をつくのは、いつも、人のほうです」
それきり、院長は、何も言わなかった。
国王は、院長の職を解き、牢へ下がらせた。
占星院は、テオたち星読みが、星だけを読む役所として残ることになった。
北の空は、竜に聞く。
百年前と、同じように。
◇
院長が連れ出されたあと、国王は、玉座の脇に目をやった。
そこに、殿下が立っていた。
黒髪を、首の後ろで一つに結んでいた。
誰かに結んでもらったのではなく、自分で結んだ、少し曲がった結び目だった。
「エドガー。皆に、話せ」
大広間が、しんとなった。
王宮の人たちが、殿下を見た。
十年、いないものとして扱ってきた人を。
目を逸らす人がいた。
唇を噛む人がいた。
殿下は、一歩、前へ出た。
指先が、帳面の表紙を握っていた。
「……私は、十年、西の塔にいた」
声が、かすれた。
殿下は、一度、息を吸い直した。
「誰も、私に話しかけなかった。私も、誰にも話しかけなかった。話しかけて、目を逸らされるのが、怖かったから」
高窓の光の中で、埃が、ゆっくりと舞っていた。
「この半月、私は、北の竜殿の空の見立てを、毎日書き留めてきた。一度も外れなかった。……それを、皆に伝えたかった。伝える前に、十年かかった」
殿下は、帳面を開いて、最初の頁を読んだ。
曇り。
昼過ぎから晴れる。
風は、南から。
それだけの、空の話だった。
けれど、大広間の誰も、目を逸らさなかった。
読み終えたとき、玉座の脇から、小さな音がした。
ベルント卿だった。
金の鎖の老人が、白い髭を震わせて、泣いていた。
「殿下……。お久しゅう、ございます」
「ベルント」
殿下は、少しだけ笑った。
「木の馬は、まだ全部、塔にある。十二頭。毎年、一頭ずつ増えた。……十二の冬で、止まったけれど」
「十三頭目を」
ベルント卿は、声を詰まらせた。
「十三頭目を、彫ってございました。十年前に。お渡しできずに、ずっと、私の部屋の棚に」
ベルント卿は、とうとう顔を両手で覆った。
殿下は、その肩に、そっと手を置いた。
殿下が、自分から誰かに触れるのを、私ははじめて見た。
◇
そのあとで、リリアが、国王の前に進み出た。
王太子のユリウス殿下が、隣に立った。
金の髪の、本編でいちばん人気の攻略対象。
ユリウス殿下は、リリアの手を取って、やさしく言った。
「君の光が、この国の春になる」
本編の、ユリウス殿下の台詞だった。
私が書いた。
ヒロインは、ここで頬を染めて、うつむくはずだった。
リリアは、うつむかなかった。
「ありがとうございます、殿下。でも、わたし、光るより、話したいです」
ユリウス殿下が、目を丸くした。
それから、本編のどの頁にもない顔で、笑った。
「では、話そう。いくらでも」
私は、大広間の隅で、帳面を開いていた。
国王の、本編の四つのどれでもない言葉。
殿下の、最初の話。
リリアの、光るより話したい、という一言。
ユリウス殿下の、書いていない笑い方。
全部、書き留めた。
約束したとおりに。
◇
夕方、国王に呼ばれた。
「北の娘。礼をしたい。望みを言え」
「何も、要りません」
そう言ってから、私は、少し考えた。
「……北の村の、空の見立てを、毎週、鳩で王都へ送ります。殿下に、読んでいただけますか」
国王は、殿下を見た。
殿下は、頷いた。
「余も、読もう」
練兵場に戻ると、竜が、首を上げて待っていた。
「王都の空は、狭いな」
「北より、ですか」
「屋根が多すぎる。星も、半分しか見えん」
竜は、北の方へ首を向けた。
王宮の城壁の向こうに、遠い山の影が、薄く青く見えていた。
「村に残した空は、とうに尽きている」
「……はい」
「あの村の者は、百年、自分で空を見てきた。心配はしておらん」
竜は、そう言った。
けれど、北を見たまま、しばらく首を動かさなかった。
心配していない顔ではなかった。
宿舎に戻ると、カイルが、柵の前で待っていた。
「竜は、明日の朝に発つと言っている」
「はい」
「そうか」
カイルは、それ以上何も言わなかった。
いつもの、短くて硬い言い方だった。
けれど、灰色の目が、少しだけ、何かを言いたそうに見えた。
明日、私は、北へ帰る。




