第42話 書いた者の責任
国王に名を呼ばれて、殿下は、しばらく動けなかった。
それから、ゆっくりと膝をついた。
十年前に、そうしていたのだろう、という形で。
「……はい、父上」
国王は、何か言おうとして、言えなかった。
疲れた目が、殿下の顔の上をさまよって、それから、床に落ちた黒い本に移った。
「ベルント」
「は」
「院長を、下へ。……話は、明日、余が聞く」
ベルント卿が、梯子の下へ声をかけた。
ロルフと騎士が二人、上がってきた。
院長は、腕を押さえたまま、何も言わなかった。
杖だけが、胸壁に立てかけられたまま、残された。
梯子を下りる前に、院長は一度だけ振り向いた。
竜を見たのではなかった。
私を見ていた。
どうしてこの娘が、と言っている目だった。
北の村の、ただの宿屋の娘が、と。
◇
竜が、胸壁の上から、首を国王の前まで下ろした。
国王は、退かなかった。
ベルント卿が前へ出かけたのを、手で止めた。
「人の王よ」
竜の声が、月の下に響いた。
「百年前、人の王と竜は、約束をしていた。覚えているか」
「……知らぬ」
国王は、正直に言った。
「年代記にあることは、書いてあることしか、知らぬ」
「ならば、教える。竜は、北の雪と嵐を、人に告げる。人は、守り人の村と、冬至の蜂蜜酒を守る。それだけの約束だ」
国王は、目を閉じた。
「余の家が、それを、破ったのだな。王の名において」
「そうだ」
竜は、嘘をつかない。
国王の顔が、ゆっくりと歪んだ。
「では、余の名において、結び直そう」
「名において、か」
竜は、喉の奥で笑った。
「百年前も、そうだった。名だけで、口は誰も開かなかった。……お前の口で、言え」
国王は、長いこと黙っていた。
それから、灰色の髭の下で、口を開いた。
本編の台詞の、四つのどれでもない言葉で。
「北の竜よ。北の空を、また、教えてくれ。余は、北の村を守る。……冬至の酒は、余も一口、もらえるか」
「一年に、一口だけだ」
「十分だ」
竜は、目を細めた。
それで、約束は結ばれたのだと思った。
◇
銀の円の真ん中に、黒い本が落ちたままになっていた。
私は、それを拾い上げた。
思っていたより、ずっと軽かった。
背に刻まれた、四つと、三つの形。
百年前に、この本で、竜の言葉が奪われた。
解く方法も、移す方法も、全部この一冊に書いてある。
「それは、私が預かろう」
殿下が、手を差し出した。
「誰も読まない本の山の、いちばん奥に置く。私が、毎日見張る」
「殿下が」
「塔から、ずっと外を見てきた。見張るのは、得意なんだ」
竜が、首を傾げた。
「預かったものは、返せよ」
「いつ、誰に」
「要るときに、要る者に。それが、預かるということだ」
殿下は、本を両手で受け取って、胸に抱えた。
◇
屋上に、何人かが残った。
殿下と、リリア。
痩せた星読み。
竜と、カイル。
月は、塔の真上にあった。
私は、円の外の石の床に座りこんでいた。
膝が、今になって震えはじめていた。
「リタさん」
リリアが、隣にしゃがんだ。
「わたし、これから、どうしたらいいですか。台本の言葉が、もう、出てこないんです。何を言っても、自分の言葉で。……こわいけど、ちょっと、楽しい」
私は、笑ってしまった。
それから、屋上の人たちを、一人ずつ見た。
台詞を一つも書いてもらえなかった王子。
台本の言葉しか持たせてもらえなかった聖女。
名前さえ付いていない、星読み。
最後に、竜。
八万字の台詞を、百年遅れで、自分の声で話している竜。
みんな、私が書いて、書き終えなかった人たちだ。
書きかけて、箱にしまって、削られるのを黙って見ていた人たち。
「続きを、書きます」
私は、言った。
「台本は、もう書きません。あなたたちが何を言うのかは、あなたたちが決める。でも、あなたたちが自分で言ったことは、私が全部、書き留めます。誰にも、削られないように」
殿下が、帳面を持ち上げてみせた。
「それなら、私も書こう。竜殿の見立てと一緒に」
「わたしのことも、書いてくれますか」
「はい、リリア」
痩せた星読みが、銅の筒を抱えたまま、おずおずと口を開いた。
「……私にも、名前がございます。院長は、星読み、としか、お呼びになりませんでしたが」
「教えてください」
「テオ、と申します」
テオ。
私が地図に名前を一つ書いただけの建物の中に、ずっといた人。
その名前を、私は、今夜はじめて知った。
◇
みんなが梯子を下りたあと、竜も、胸壁から爪を離して、練兵場の方へ降りていった。
屋上には、カイルだけが残った。
槍を、胸壁に立てかけて。
月を背にして、私の前に立った。
「いつか、の日は、今夜でいいか」
私は、頷いた。
全部、話した。
前世のこと。
会社の床の冷たさ。
乙女ゲームのこと。
竜の八万字の台詞と、削られた隠しルート。
カイルが攻略対象で、騎士団長の回想で、北の村を救えなかったと言うはずだったこと。
カイルは、最後まで黙って聞いていた。
「俺の台詞も、お前が書いたのか」
「はい。……最初に会った日に、私が知っていたのは、そのせいです」
「岩棚で、お前は言ったな。書いたのが私だから、と。書いた者の責任だ、と」
カイルは、少しだけ空を見上げた。
「あれは、そういう意味だったのか」
「はい」
カイルは、胸壁の槍に目をやった。
穂先の下で、父君の布が、夜風に揺れていた。
「さっきの、俺が頼まれたのは塔を守ることだ、というのは」
「書いていません」
私は、首を振った。
「あれは、私の知らない台詞です」
カイルは、しばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「なら、あれは俺の台詞だ」
月は、まだ塔の真上にあった。
書いたものの続きを、書いていないものが追い越していく。
それを書き留めるのが、これからの私の仕事だ。
それが、書いた者の責任だ。




