第41話 儀式の夜
満月は、竜の言ったとおり、雲一つない空にのぼった。
占星院の塔の下に、槍を立てた騎士が十人、輪になって並んでいた。
残りの十人は、塔の中の階段に、上へ行くほど間をあけて立っていた。
岩棚に登った二十人だ。
すれ違うたびに、誰かが小さく頷いた。
いちばん上の踊り場で、ヨナスが、泣きそうな顔で槍を握っていた。
「リタ殿。……団長は、上です」
梯子を上ると、屋上には、もう人が揃っていた。
銀の円が、月の光を吸って、白く光っていた。
円の真ん中に、白い衣のリリアが立っている。
その少し前に、殿下。
胸壁の際に、国王が立っていた。
灰色の髭。
疲れた目。
本編の台詞を、四つしか持たない人だ。
隣に、金の鎖のベルント卿が控えている。
国王の後ろに、カイルがいた。
父君の布を結んだ槍を、まっすぐに立てて。
円の向こう側に、院長と、痩せた星読み。
院長は、黒い革の本を、両手で胸に抱えていた。
黒い杖は、背中の胸壁に立てかけてあった。
国王は、殿下の方を、一度も見なかった。
◇
風が鳴った。
塔の東側の胸壁の向こうから、大きな影がせり上がってきた。
竜だ。
竜は、塔の外壁に爪をかけて、首だけを胸壁の上に出した。
金色の目が、リリアの背中の、すぐ後ろにあった。
大きな丸い月。
口を閉じて立つ聖女。
その後ろの竜。
塔の下の、槍の騎士たち。
前世の私が、きれいだと思った一枚絵と、同じ景色だった。
ただ一つだけ、違うものがある。
円の外に、私が立っている。
「陛下。星を読む儀を、はじめます」
院長が、本を開いた。
低い声が、月の下に流れはじめた。
人の言葉ではなかった。
四つ。
休み。
三つ。
休み。
古竜語の区切りだ。
前世の私が、資料集の中で作った決まり。
その決まりで、百年前の魔術師は、呪いの言葉を書いていた。
銀の円の光が、強くなった。
◇
竜が、低く呻いた。
円の光が、竜の喉を引っぱっているのが分かった。
竜の口から、細い光の糸が、ほどけるように伸びはじめた。
声の糸だ。
竜の金色の目が、私を見た。
怖がっている目ではなかった。
ここにいろ、と言っている目だった。
私は、円の外で、両手を握りしめた。
まだだ。
まだ、何も決まっていない。
この儀には、あと二つ、要るものがある。
院長は、本から目を上げずに言った。
「殿下。お言葉を」
殿下が、一歩、前へ出た。
けれど、殿下が向いたのは、リリアの方ではなかった。
胸壁の際の、国王の方だった。
「父上」
国王の肩が、びくりと動いた。
十年ぶりの、言葉だった。
殿下が父君に話しかけるのも。
国王が、それを聞くのも。
「私は、竜殿の声を移せとは、言いません」
殿下は、懐から帳面を出した。
竜の見立てを書き留めてきた、帳面だった。
「竜殿の空の見立ては、この半月、一度も外れませんでした。占星院の見立ては、三度外れた。北の竜の声は、災いの声ではありません。……十二の冬の予言を読んだのも、その人です」
国王の目が、ゆっくりと、殿下の顔に向いた。
十年、見なかった顔を。
◇
院長は、殿下を見なかった。
本を読み続けたまま、リリアに顔を向けた。
「聖女様。お言葉を」
リリアの唇が、動いた。
「わたしの、声を……どうぞ……」
勝手に動いている口だった。
リリアの目は、怯えて、私を探していた。
私は、叫んだ。
「リリア!」
リリアの口が、止まった。
一秒。
二秒。
リリアは、自分の両手で、自分の口を押さえた。
それから、手を下ろして、はっきりと言った。
「いやです。わたしの声は、わたしのです」
院長の顔から、はじめて、笑みが消えた。
本を読む声が、速くなった。
区切りが、乱れはじめる。
四つ、三つ、四つ、四つ。
円の光が、激しく揺れた。
竜の喉から伸びた声の糸が、ぶつりと切れかけて、円の上に漂った。
行き場がないのだ。
器が、受け取らないから。
竜が、口を開けた。
声が、出なかった。
吠え声も、出なかった。
大きな丸い月の下で、竜が、空に向かって、声のない口を開けていた。
◇
私は、円の縁まで走った。
岩棚の朝を、思い出していた。
竜が「帰れ」と吠えて、私が、杖を雪に突き立てた朝。
順番が、逆だった。
台本では、竜が先に挨拶をして、ヒロインが返すはずだった。
あの朝も、私が先に返した。
今夜も、それでいい。
四つ。
休み。
三つ。
休み。
「白い冬に、名を呼ぶ者はいない。けれど私は、あなたの名を知っている。ヴェルグ」
竜の守り人が、人の友に贈る挨拶の、返し方。
円の上に漂っていた光の糸が、ふるえた。
それから、するすると、竜の口へ戻っていった。
竜の喉が、鳴った。
「白い冬に、よく来た。私の名を呼ぶ者よ」
八万字の、いちばん最初の一行だった。
前世の私が、竜の第一声として書いた台詞。
声を演じる人が決まっていて、収録の日取りまで決まっていて、その日が来なかった一行。
それを、竜が、私に言った。
◇
「騎士団長」
院長が、本を抱えたまま叫んだ。
柔らかい声は、どこにもなかった。
「その娘を、取り押さえよ。儀を乱す者だ。星読み、筒を。竜の声を測れ」
痩せた星読みは、動かなかった。
銅の筒を、胸に抱えたまま。
筒の口を、竜ではなく、石の床に向けていた。
「……院長。もう、測れません」
震える声だった。
カイルが、動いた。
国王の後ろから、まっすぐに、円の中へ。
けれど、私の方へではなかった。
「俺が頼まれたのは、塔を守ることだ」
カイルの槍が、横に振られた。
石突きが、院長の腕を打った。
黒い革の本が、宙に浮いた。
銀の円の真ん中に落ちて、乾いた音を立てた。
円の光が、消えた。
月の光だけが、残った。
白い、静かな光だった。
誰も、何も言わなかった。
リリアが、肩で息をしていた。
竜が、胸壁の上で、ゆっくりと瞬いた。
国王が、一歩、前へ出た。
疲れた目が、まっすぐに、殿下を見ていた。
かすれた声が、月の下に落ちた。
「……エドガー」




