第39話 エドガーの選択
「今日は晴れ。明日も晴れ。満月の夜は、雲一つない」
竜は、今朝もいつもどおりに空を告げた。
院長が来た日の夕方から、竜は一度も、東の塔の方を見なかった。
昨日は一日、練兵場の隅で目を閉じていた。
ときどき、喉の奥で、低い音を鳴らした。
古竜語の区切りに似ていたけれど、言葉ではなかった。
「何を、数えているんですか」
「星だ」
昼の空に、星は見えない。
それでも竜は、一つずつ、数えるように喉を鳴らしていた。
雲一つない満月の夜。
銀の円に、月の光がいちばんよく溜まる夜だ。
◇
満月の二日前の朝、西の塔の階段には、いつもの盆が置かれていなかった。
扉の脇の、侍従が盆を置いていく場所。
そこが、空いていた。
扉を叩くと、すぐに返事があった。
「入って」
殿下は、窓辺の机にいた。
机の上に、帳面が開いたままになっている。
いつもの竜の見立ての帳面ではなかった。
白い頁に、何度も書いては消した跡があった。
「朝の盆は」
「下げてもらった。今日は、院長が来る日だから」
殿下は、帳面を閉じた。
目の下に、薄い影があった。
昨日も、一昨日も、あまり眠っていないのだろう。
「リタ。今日は、そこにいてくれないか」
殿下は、本棚の間の椅子を指さした。
「院長が来たら、私は何かを言う。何を言うのか、私にも、まだ分からない。だから、誰かに聞いていてほしい」
◇
院長は、昼前に来た。
階段を上ってくる杖の音が、塔の石に響いた。
こつん。
こつん。
音が近づくたびに、殿下の肩が、ほんの少しだけ固くなった。
扉が開いた。
「殿下。今月も、お元気そうで」
院長は、にこにこと笑って入ってきた。
私を見ても、少しも驚かなかった。
「おや、お嬢さんも。殿下に、よいお話し相手ができましたな」
院長は、殿下の向かいに座った。
黒い杖を、椅子の脇に立てかける。
銀の星が、窓の光を受けて、白く光った。
それから、懐から、折りたたんだ紙を一枚取り出した。
「満月の夜のお務めの、お言葉です。これだけを、塔の上で、おっしゃっていただければ」
殿下は、紙を受け取って、開いた。
私の椅子からも、字が見えた。
『王の名において、北の竜の声を、聖女の身に移す』
一行だけだった。
私が、前世で書くはずだった台詞と、ほとんど同じ形だった。
「北の竜の声は、国に災いを呼ぶ声です。災いが来る前に、清い器に移して、閉じこめねばなりません」
院長の声は、柔らかかった。
「王の血を引く方にしか、できないお務めです。陛下は、ご高齢であらせられる。王太子殿下は、聖女様と結ばれるお方。……殿下しか、おられないのです」
◇
殿下は、紙を見つめたまま、黙っていた。
「この儀が終われば、国じゅうが知るでしょう。第一王子殿下が、北の災いから国を救われた、と」
院長は、少し声を落とした。
「陛下も、殿下を、ご覧になります」
殿下の指が、紙の端で、止まった。
十二の冬から、王は殿下を見なくなった。
回廊ですれ違っても、ベルント卿でさえ、目を上げなかった。
十年。
その十年を終わらせる言葉が、紙の上に一行だけ書いてある。
私は、膝の上で手を握りしめた。
口を出してはいけない、と思った。
これは、殿下が決めることだ。
私が書いた殿下なら、ここで、紙を受け取る。
恨みを抱えた黒幕として、塔に上る。
けれど、私は、その台詞を一つも書かなかった。
◇
「院長」
殿下が、顔を上げた。
「十年、私の話を聞いてくれて、ありがとう」
院長の笑顔が、深くなった。
「もったいない、お言葉です」
「本当に、そう思っている。誰も私に話しかけない王宮で、あなただけが来てくれた。毎月、満月の前に」
殿下は、紙を、丁寧に折りたたんだ。
元の折り目のとおりに。
それから、机の上を滑らせて、院長の前に返した。
「でも、これは、言わない」
院長の笑顔は、変わらなかった。
目だけが、眼鏡の奥で、少しだけ細くなった。
「殿下」
「竜殿の声は、災いを呼ぶ声ではない。私は、竜殿の見立てを、この窓から十日以上書き留めてきた。一度も、外れなかった」
「それは」
「占星院の見立ては、三度、外れた」
部屋が、静かになった。
窓の外で、鳩の羽音がした。
院長は、ゆっくりと立ち上がった。
杖を取って、床に一度、こつん、と鳴らした。
「では、聖女様は、お一人で塔に上られることになりますな」
院長は、やさしく言った。
「それに、殿下。満月の夜の儀の記録には、もう、殿下のお名前が書いてございます。第一王子殿下の命により、と。殿下が塔にお越しにならなくても、記録は変わりません」
◇
殿下は、しばらく何も言わなかった。
私は、息をのんで、殿下の横顔を見ていた。
来なくても、名前は使われる。
聖女は、一人で塔に上る。
殿下がここで紙を返しても、儀式は止まらない。
殿下は、窓の外を見た。
東の空に、占星院の塔の星が光っていた。
それから、院長に目を戻した。
「なら、上る」
「おお」
「あなたの書いた一行を言うためではない。私の言葉を、言いに」
院長は、一瞬だけ黙った。
それから、いつもの笑顔に戻って、頭を下げた。
「殿下は、何のためにお生まれになったのか。お分かりにならないまま、十年、ここにおられた。お気の毒なことです」
「分からない」
殿下は、静かに言った。
「だから、自分で決める」
院長は、それ以上何も言わずに出ていった。
杖の音が、階段を下りて、遠ざかっていった。
◇
扉が閉まると、殿下は、椅子の背に、ずるずると沈みこんだ。
「……膝が、震えている」
「はい」
「十年ぶりに、誰かの頼みを断った。こんなに、怖いものなんだね」
殿下は、笑おうとして、うまく笑えなかった。
私も、うまく笑えなかった。
「リタ。君の設定資料に、今の私は、書いてあったか」
「いいえ」
私は、首を振った。
「一行も、書いてありません」
「そうか」
殿下は、天井を見上げて、長い息を吐いた。
「それなら、よかった」
窓の外で、日が傾きはじめていた。
明後日の夜には、あの東の空に、丸い月がのぼる。
殿下は、身を起こして、私を見た。
「聖女殿には、誰が話す」
「私が、話します。明日」
殿下は、頷いた。
「台本の外で、だね」




