第38話 竜の怒り
「今日は晴れ。風はない。夕方に、西の空が赤くなる」
竜が空を告げ終えるのを、私は窓辺で待っていた。
話すことは、一晩かけて、頭の中で並べてあった。
年代記の行。
ゲルハルトという名前。
黒い杖と、銀の星。
帳面を閉じて、窓を開けた。
そのとき、門の方から、杖の音が聞こえたのだ。
こつん。
こつん。
院長は、星読みを三人連れていた。
いちばん前に、あの痩せた星読み。
腕に、細長い銅の筒を抱えている。
後ろの二人は、まだ若い。
二人がかりで、布をかけた木の台を運んでいた。
院長は、ゆっくりと練兵場の砂の上を歩いてきた。
黒い杖が、一歩ごとに、こつん、と鳴る。
杖の頭の銀の星が、朝日を弾いて光った。
「竜殿。ようやく、お目にかかれました」
院長は、竜の前で立ち止まって、丁寧に頭を下げた。
竜は、答えなかった。
竜は、院長を見ていなかった。
杖を見ていた。
金色の目が、銀の星の上で、止まっていた。
◇
「その杖を、私は知っている」
竜の声が、低く、練兵場の砂を這った。
私は、宿舎の階段を駆け下りた。
裸足のまま、砂の上に飛び出した。
「百年前の冬だ。灰色の衣の男が、岩棚へ上ってきた。その杖を、私に向けた。杖の頭の星が光って、それから、私の言葉は吠え声になった」
「よく、覚えておいでだ」
院長は、にこにこと笑った。
柔らかい、温かい声だった。
「曾祖父の杖です。曾祖父は、よい仕事をいたしました。おかげで、百年、北は静かでした」
竜の喉の奥で、何かが鳴った。
岩が崩れる前の、山の音に似ていた。
竜の首の鱗が、一枚ずつ逆立っていく。
翼が、半分だけ開いた。
砂が舞い上がって、私の頬を叩いた。
「静か、だと」
「ええ。竜殿の声は、国に災いを呼ぶ声ですから」
練兵場の向こうで、騎士たちが駆けてくる足音がした。
誰かが、叫んでいる。
ロルフの声だ。
院長の後ろで、星読みが、銅の筒の口を竜に向けた。
若い二人が、木の台の布を取った。
台の上に、銀の円が刻まれた、小さな石の板が載っていた。
塔の屋上の床にあった円と、同じ形だった。
私は、全部分かった。
院長は、竜に会いに来たのではない。
竜を、怒らせに来たのだ。
王宮の真ん中で、竜が吠える。
騎士たちが見ている前で、翼を広げて、怒りの声を上げる。
それを、星読みが測る。
北の竜の声は、国に災いを呼ぶ声である。
満月の前に、誰の目にも、そう見えるように。
◇
竜の口が、開いた。
喉の奥が、赤く光っていた。
百年分の声が、そこまで来ていた。
私は、竜の前に走りこんだ。
杖と、竜の間に。
両腕を広げて、竜の顔を見上げた。
「ヴェルグ」
金色の目が、私を見た。
怒りで、目の中の色が、燃えるように揺れていた。
「吠えないで。お願いです」
「どけ、リタ」
「どきません。吠えたら、あの人の書いた筋書きどおりです」
竜の目が、わずかに動いた。
私の肩越しに、銅の筒を見た。
銀の円の板を見た。
「百年前、あなたの声を奪った人がいて。そのひ孫が、今、あなたに吠えてほしがっているんです。災いの声だと、言うために」
竜の喉の光が、揺れた。
一秒。
二秒。
竜は、口を閉じた。
鼻の穴から、白い煙が、長く長く吐き出された。
逆立った鱗が、一枚ずつ、ゆっくりと伏せていく。
翼が、背中に畳まれた。
◇
竜は、首を下げて、院長の顔の前まで下ろした。
院長は、一歩も退かなかった。
笑ったままだった。
「帰れ」
竜は、静かに言った。
「百年前、岩棚で、お前の曾祖父にも、そう言った。あの日の私は、まだ言葉で言えた」
院長の笑顔が、ほんの少しだけ、硬くなった。
それから、何事もなかったように、また丁寧に頭を下げた。
「では、満月の夜に。塔で、お待ちしております」
院長は、杖を鳴らして、門の方へ歩いていった。
若い星読みが、慌てて木の台に布をかけて、後を追った。
痩せた星読みだけが、少し遅れた。
銅の筒を抱えたまま、竜を見て、私を見た。
何かを言いかけて、結局、何も言わずに頭を下げた。
◇
「何があった」
槍を握ったカイルが、私の横に立っていた。
いつ来たのか、気づかなかった。
後ろで、ロルフと騎士たちが、肩で息をしていた。
「竜が、あんなに怒るのを、俺は岩棚の朝以来、初めて見た」
「……あとで、話します。今は」
私は、竜を見上げた。
カイルは、それ以上聞かなかった。
騎士たちを連れて、少し離れたところまで下がってくれた。
私は、竜に、全部話した。
年代記の、二つの行。
王の名において、竜の声を封ず。
以後、北の雪と嵐は、星に問うべし。
空を、独り占めにするための呪い。
十二の冬の予言。
満月の夜の、銀の円。
竜は、最後まで黙って聞いていた。
「百年」
竜が、ぽつりと言った。
「私は、何を間違えたのかと、考えていた。人の王に、何か悪いことをしたのかと。約束を忘れられたのは、私が何かをしたからだと」
「あなたは、何もしていません」
「そうらしいな。空を、取られただけだった」
竜は、東の空を見た。
占星院の塔のてっぺんで、星の飾りが光っていた。
満月まで、あと四日。
「満月の夜、私は塔へ行く」
「行けば、声を取られるかもしれません」
「行かなければ、あの杖は、また百年、北の空を独り占めにする」
竜は、私に目を戻した。
金色の目は、もう燃えていなかった。
「百年前、私は、山にこもった。言葉を奪われて、誰にも何も言えずに。……二度目は、ない」
私は、竜の鼻先に、そっと手を当てた。
鱗は、まだ熱かった。
百年前の冬を、私は書いていない。
岩棚に上ってきた灰色の衣の男も、星の光った杖も、知らなかった。
知らないまま、私はこの人の台詞を八万字書いて、箱にしまって、死んだ。
その百年の続きを、今、この人は自分で決めた。
「一人では、行かせません」
「知っている」
竜は、目を細めた。
怒りの名残りのない、いつもの、少し意地の悪い目だった。
「お前は、窓の娘だからな。私が吠えると、いつも見ている」
少し離れたところで、カイルが槍を立てて、こちらを見ていた。
穂先の下で、父君の布が、風もないのに小さく揺れた気がした。




