第37話 百年前の魔術師
西の塔の階段を上りながら、私は、ゆうべの竜の声を思い出していた。
「銀の円か」
塔から戻って、見てきたものを全部話したあと、竜はそれだけ言った。
本のことも、百年分の数字のことも、黙って聞いていた。
「あの書物が、まだあったとはな」
「怒らないんですか」
「怒る相手が、まだ分からん」
竜は、そう言って目を閉じた。
眠ったのではないことは、分かっていた。
◇
殿下は、窓辺の机で、帳面に何かを書いていた。
今朝の竜の見立てだ。
晴れ。風は北から。午後に、薄い雲。
「来たね」
殿下は、いつものように笑った。
私は、その笑顔の前に座って、膝の上で手を握った。
「殿下。今日は、もう一つの結末の話をしに来ました」
殿下の笑顔が、少しだけ止まった。
私は、話した。
竜に話したのと、同じことを。
満月の夜。
塔の上。
第一王子が聖女の前に立ち、北の竜の声を、聖女の身に移して封じる。
聖女は声を失い、竜はふたたび話せなくなる。
殿下は、最後まで黙って聞いていた。
それから、長い指で、帳面の端をそっと閉じた。
「それが、院長の言う、国のための大事な儀か」
「たぶん」
「そこで、私は、何を言う」
「……竜の声を、移せ、と。王の名において」
窓の外で、鳩が一羽、飛び立った。
「そうか」
殿下は、それだけ言った。
怒らなかった。
泣きもしなかった。
ただ、閉じた帳面の表紙を、指で一度だけ撫でた。
竜の見立てを書き留めてきた帳面だった。
その竜の声を、封じる言葉を言う役。
それが、十年ぶりに頼まれた、役目だったのだ。
◇
「調べたいことがある」
しばらくして、殿下は立ち上がった。
本の山の向こうの、いちばん奥の棚へ行く。
埃をかぶった、厚い本を、両腕で抱えて戻ってきた。
「王国の年代記だ。誰も読まないから、ここに置いてある」
殿下は、重い頁をめくった。
古い字が、びっしりと並んでいた。
指が、ある行で止まった。
「王国暦三百十二年、冬」
殿下は、声に出して読んだ。
「北の竜の声、国に災いを呼ぶと、魔術師ゲルハルト奏上す。王、これを容れ、王の名において、竜の声を封ず」
私は、息をするのを忘れた。
百年前。
竜が言葉を奪われた冬だ。
「次の年」
殿下の指が、一行下へ動いた。
「三百十三年、春。ゲルハルト、王命により占星院を開く。以後、北の雪と嵐は、星に問うべし」
星に問うべし。
それまで、北の雪と嵐を王都に告げていたのは、竜だった。
竜が、毎年、守り人の村を通して、人の王に告げていた。
人は、そのかわりに、守り人の村と冬至の蜂蜜酒を守った。
その約束を、王の名で破らせたのが、ゲルハルトだった。
「この王は、竜と話したことがなかったのだろうね」
殿下が、年代記の上の名前を、指でなぞった。
私の知らない、百年前の王の名前だった。
「北の空のことは、毎年、北から届く書状で知っていた。書状の向こうに誰がいるのかは、考えたこともなかった。……だから、災いだと言われて、信じた」
「殿下」
「私も、同じだ。竜殿の声を、帳面に書き写すだけで、塔から一歩も出なかった」
竜の声を奪えば、北の空を知る者は、占星院だけになる。
天気の予言を、占星院だけのものにできる。
空を知る者は、王の耳を持つ。
麦の播きどきも、戦の日取りも、占星院に聞かなければ決められなくなる。
呪いの理由は、それだけだったのだ。
空を、独り占めにするため。
解く書物を写本させなかったのも、同じ理由だろう。
一冊しかなければ、その一冊を持っている者だけが、竜の声の行方を決められる。
◇
「ゲルハルトの名を、私は知っている」
殿下が、ぽつりと言った。
「院長が、話してくれたことがある。曾祖父は、偉い人だった、と。曾祖父の杖を、今も使っているのだ、と」
「曾祖父……」
「院長の名は、オズヴァルト。占星院を開いた人の、ひ孫だ」
黒い杖。
頭に、銀の星。
昨日、院長の椅子の脇に、立てかけてあった。
百年前、竜に呪いをかけた人の杖だ。
「もう一つ、思い出したことがある」
殿下は、年代記を閉じた。
その手が、わずかに震えていた。
「私が十二の冬に、占星院が予言を出した。第一王子が王冠をかぶれば、明けない冬が来る、と」
「はい」
「あの予言を読んだのも、オズヴァルトだった。院長になったばかりの冬だ」
十二の冬から、王は殿下を見なくなった。
王宮の人は、殿下を、いないものとして扱うようになった。
話しかけるのは、院長だけになった。
毎月、満月の前に。
十年かけて、院長は、この人を育てていたのだ。
誰にも話を聞いてもらえない、恨んでいてもおかしくない王子に。
満月の夜に、塔の上で、竜の声を封じる言葉を言う役に。
その罪を、全部、背負わせるために。
「私は、そのために、ここに置かれていたのか」
殿下の声は、静かだった。
静かすぎて、私は、何も言えなかった。
殿下は、窓の外を見た。
東の空に、占星院の塔の星が光っていた。
「明日、院長が、竜殿に会いに行くそうだ。今朝、侍従の盆に、院長の書きつけが載っていた。楽しみにしている、と」
殿下は、私を見ずに続けた。
「曾祖父の杖を、持って」
◇
夕方、宿舎の窓を開けると、竜はもう首を上げて待っていた。
「顔が、白い」
「階段を、たくさん上ったので」
「西の塔の階段は、昨日の塔より短い」
竜は、嘘をつかない。
それに、嘘を見逃してもくれない。
私は、窓枠を握った。
話さなければいけないことは、分かっていた。
百年前に、誰が、何のために、竜の言葉を奪ったのか。
その人のひ孫が、明日、ここへ来ることも。
けれど、口を開くと、声が出なかった。
百年分の怒りを、今夜、この人に渡していいのか分からなかった。
「明日の朝、話します。空を告げ終わったら、すぐに」
竜は、しばらく私を見ていた。
それから、首を練兵場の砂の上に下ろした。
「分かった。明日の朝だ」
私は、その夜、ほとんど眠れなかった。
けれど、翌朝、私は話せなかった。
竜が空を告げ終えて、私が窓を開けたとき。
練兵場の門の石畳に、こつん、こつん、と杖の音が響いていた。




