第36話 儀式の準備
「今日は晴れ。昼から、東の風が少し強くなる」
朝の竜の声を書き写していると、宿舎の扉が叩かれた。
灰色の衣の、痩せた男が立っていた。
胸に、銀の小さな星の留め金。
竜の声を測りに来た、あの星読みだった。
「院長が、お待ちしております。今日の昼、塔へお越しください」
満月まで、あと六日。
約束どおりの、満月の前だった。
星読みが帰ったあと、私は窓から竜に言った。
「占星院の塔へ、行ってきます」
「一人でか」
「院長は、私だけを招いています」
竜は、首をゆっくりと東へ向けた。
細い塔のてっぺんで、星の飾りが朝日を弾いていた。
「あの塔は、百年前には無かった」
「え」
「私が言葉を奪われたあとに、建った塔だ。北の雪と嵐を告げる者がいなくなって、人は、星に空を聞くことにしたのだろう」
竜の声は、静かだった。
それから、金色の目が、私に戻ってきた。
「日が暮れる前に、戻れ。戻らなければ、迎えに行く」
「塔ごと、ですか」
「塔ごとだ」
冗談なのかどうか、竜の顔からは分からなかった。
◇
占星院の塔は、王宮の東にある。
近くで見ると、思っていたより、ずっと細くて高い。
石の階段が、塔の内側を、ぐるぐると上へ巻いていた。
星読みは、黙って先を上っていく。
私は、壁に手をつきながら、その後を追った。
高いところは平気だ。
けれど、この階段は、どこまでも終わらなかった。
途中の踊り場で、星読みが足を止めた。
「竜殿は、お元気ですか」
「はい。今朝も、空を告げていました」
「……そうですか」
それだけ言って、星読みはまた上りはじめた。
何かを言いたそうな背中だった、と思う。
◇
てっぺんの部屋は、丸かった。
壁という壁に、棚がある。
棚という棚に、巻いた紙が差してある。
窓のそばの机に、小柄な老人が座っていた。
六十は過ぎているだろう。
白い髭を短く刈って、丸い眼鏡をかけている。
椅子の脇に、黒い杖が立てかけてあった。
杖の頭に、銀の星が一つ付いている。
「ようこそ、お嬢さん。北の竜と話す娘さんに、ずっとお会いしたかった」
院長は、立ち上がって、私の手を両手で包んだ。
柔らかい、温かい手だった。
「北の村の話は、聞いておりますよ。竜の空の見立て。竜の蜂蜜酒。たいしたものです」
「ありがとうございます」
「それに、西の塔へも、よく通っておられるとか」
私は、院長の顔を見た。
眼鏡の奥の目は、やさしく笑ったままだった。
「殿下は、お話し相手ができて、お喜びでしょう。あの方は、お気の毒な方ですからな」
お気の毒な方。
十二の冬の予言で、王位から遠ざけられた人。
その予言を出したのは、この塔だ。
私は、何も言わずに頷いた。
「ご覧なさい」
院長は、棚から巻いた紙を一本抜いて、机の上に広げた。
細かい数字が、びっしりと並んでいた。
一行に、一つの年。
いちばん上の行は、百年前の冬だった。
「北の竜の声です。毎年、冬に、峠から測らせてきました。声の高さと、長さと、響き。占星院を開いた人の、言いつけでしてね」
私は、紙の上の数字を追った。
百年の間、数字はほとんど動いていなかった。
それが、最後の十年ほどで、少しずつ、少しずつ、変わっていた。
吠え声が、言葉に近づいていく数字だった。
「声が、戻りかけていたんですね」
院長は、にこにこと頷いた。
「ええ。百年たてば、どんな呪いも、少しはほどけます。それで、去年の秋に、占星院は予言を出しました」
この冬に、竜が山を下りる。
騎士団長の回想の、一行目の前にあった予言。
カイルが、外れたことがないと言った予言だ。
指先が、冷たくなった。
竜が下りてくる、と言えば、騎士団が出る。
騎士団が出れば、竜は怒って、村を焼いて、討たれる。
私が書いた回想のとおりに。
あの予言は、竜を討たせて、声が戻る前に口を封じるためのものだったのだ。
「外れてしまいましたがね」
院長は、少しも残念そうではない声で言った。
「竜は、山を下りませんでした。かわりに、話しはじめた。百年ぶりに」
「話しては、いけないんですか」
「占星院を開いた人は、こう書き残しております。北の竜の声は、国に災いを呼ぶ声である、と」
院長は、困った子どもを見るように、首を傾げた。
「お嬢さんは、竜殿と仲がよろしい。お気持ちは分かりますよ。ですが、星は、嘘をつきません」
竜も、嘘をつかない。
そう言い返しかけて、私は口を閉じた。
この部屋で、それを言ってはいけない気がした。
◇
院長は、紙を巻き直して棚に戻した。
私は、その間に、机の上を見ていた。
一冊の、古い本があった。
革の表紙が、黒く擦り切れている。
背に、文字が刻んである。
人の字ではない。
四つの形と、間をあけて三つの形。
古竜語の、区切りだ。
竜が、岩棚で言っていた。
呪いを解く方法を書いた書物が、王都に一冊だけあった、と。
写本されないまま、燃えたか、黴びたか、どこかの棚の奥で眠っているか、と。
眠ってなど、いなかった。
ずっと、ここにあったのだ。
「満月の夜に、星を読む儀を行います」
振り向いた院長が、言った。
眼鏡の奥の目が、細くなって笑った。
「陛下にも、お越しいただきます。お嬢さんにも、ぜひ、この塔へ。竜殿のお言葉を、陛下にお伝えする方が要りますから」
「竜は、自分で話せます」
「ええ、ええ。そうでしたな」
院長は、窓の外を手で示した。
窓の向こうに、塔の屋上へ出る短い梯子が見えた。
「よろしければ、上もご覧ください。儀の支度が、ちょうど整ったところです」
◇
梯子を上ると、風が強かった。
東の風だ。
竜の言ったとおり、昼から強くなっていた。
塔の屋上は、白樺亭の厨房ほどの広さしかなかった。
低い胸壁に囲まれて、真ん中の床に、何かが光っていた。
銀の円だった。
石の床に溝を彫って、そこに銀を流しこんである。
円の中に、もう一つ小さな円。
二つの円の間に、古竜語の区切りの形が、ぐるりと並んでいる。
私は、その場に立ちつくした。
大きな丸い月の下で、聖女が口を閉じて立っている。
その後ろで、竜が空に向かって口を開けている。
前世の私が、きれいだと思った一枚絵。
あの絵の、聖女の足元にあったものだ。
背景の担当の人に、私が頼んだのだ。
床に、銀の円を描いてください。
月の光が、そこに溜まるように。
その円が、私の目の前の床に、本当に彫られていた。




