第35話 没になった結末
「今日は晴れ。風は北西から。この晴れは、満月まで続く」
朝の竜の声を、私は窓辺で書き写した。
書き写しながら、手が震えた。
満月まで、あと七日。
殿下の言葉が、一晩じゅう頭から離れなかった。
次の満月の夜、占星院の塔の上で、聖女の前に立つ。
眠れないまま、私はずっと、箱の中のことを思い出していた。
前世の私が、竜の台本の下に重ねてしまった紙束。
二度と開けないと決めた、もう一つの結末の頁だ。
◇
朝の空を告げ終えた竜に、私は窓から言った。
「聞いてほしい話があります」
「聞いている」
「あなたにとって、いい話ではありません」
竜は、首を窓の高さまで上げた。
金色の目が、まっすぐに私を見た。
「話せ」
私は、話しはじめた。
「企画の、いちばん最初の版では、あなたは本編の最後まで生きていました。回想で討たれるのではなく、北の山で、ずっと」
「今の私のようにか」
「はい。その版には、聖女の結末がいくつかありました。その一つが、もう一つの結末です」
声が、かすれた。
私は、窓枠を握った。
「満月の夜、塔の上で、第一王子が聖女の前に立ちます。そして、北の竜の声を、聖女の身に移して、封じるんです」
竜は、何も言わなかった。
「竜の声は、国に災いを呼ぶ声だということになっていました。だから、聖女の清い身に移して、閉じこめる。聖女は、そのかわりに声を失います。二度と、話せなくなります」
「私は」
「あなたは、ふたたび話せなくなります。今度は、吠え声も出ません」
練兵場の砂の上を、風が渡っていった。
騎士たちの掛け声が、遠くで聞こえた。
竜は、長いこと黙っていた。
◇
「一枚絵も、ありました」
黙っているのが苦しくて、私は続けた。
「大きな丸い月の下で、聖女が口を閉じて立っていて。その後ろで、竜が空に向かって口を開けているんです。声のない絵でした。きれいな絵だと、私は思いました」
前世の私は、その絵を見て、きれいだと思ったのだ。
竜が声を失って、聖女が声を失って、それで国は救われたことになる。
悲しい結末ほど、記憶に残る。
そういう理屈で、書いた。
「竜のルートを削ったとき、あなたは回想で討たれることになりました。それで、この結末も一緒に外したんです。生きていない竜の声は、移せないから」
「それで、消えたのか」
「消したはずでした」
竜は、首をゆっくりと東へ向けた。
占星院の細い塔が、朝の光の中に立っていた。
「声の高さと、長さと、響き」
竜が、低く言った。
「あの星読みは、私の声を測りに来た」
私は、息をのんだ。
測っていたのだ。
移すための、声を。
「リタ」
竜が、私の名を呼んだ。
吹雪の晩から、何十回も呼ばれた名前だった。
「百年、私は話せなかった。岩棚でお前の答えを聞いて、私は言ったな。悪くない、と」
「……はい」
「話すのは、悪くない。名を呼ぶのも。毎朝、空を告げるのも。ヴァレンの子の剣に、文句をつけるのも」
竜の声は、静かだった。
怒っているのでも、怯えているのでもなかった。
「お前は、その結末を、もう書かないのだな」
「書きません。二度と」
「ならば、誰が書いている」
私は、答えられなかった。
答えを知らないことが、こんなに怖いと思ったことはなかった。
◇
昼前、私は薔薇園へ行った。
満開の薔薇の中に、白い衣が見えた。
リリアが、侍女を二人連れて、薔薇の小道を歩いていた。
私に気づくと、リリアは、にっこり笑った。
「これから、よろしくお願いしますね」
お披露目の日と、同じ台詞だった。
私は、その前に立った。
「聖女様。満月の夜に、どこかへ行かれますか」
リリアは、少しだけ首を傾げた。
一秒。
二秒。
それから、微笑んだまま、言った。
「満月の夜に、わたしの声が、誰かの役に立つのなら、うれしいです」
足元が、崩れるような気がした。
それは、もう一つの結末の台詞だった。
塔に上る前の夜に、聖女が、騎士団長に言う台詞。
削った頁の、真ん中に書いた一行。
本編の台詞しか持たないはずのリリアが、削られた頁の台詞を言った。
「占星院の院長さまが、お清めの儀に、聖女様をお招きくださったのです」
侍女の一人が、誇らしげに言った。
「満月の夜に、塔の上で。王国のための、大切なお務めだそうですわ」
リリアは、微笑んでいた。
けれど、胸の前で組んだ指が、白くなるほど強く握られていた。
私は、それを見た。
お披露目の日、竜を見上げたときと同じ、何かをのみ込んだような目も。
◇
夕方、宿舎に戻ると、カイルが練兵場の柵の前に立っていた。
父君の布を結んだ槍を、肩に立てかけている。
私を見て、少しだけ眉を寄せた。
「顔色が悪い」
削った頁の一枚絵を、私は思い出していた。
塔の下には、槍を持った騎士たちが並んでいた。
誰のための儀なのかも知らずに、塔を守っていた騎士たちだ。
「カイル。満月の夜に、何か頼まれていませんか。占星院から」
カイルの目が、わずかに細くなった。
「なぜ知っている」
「……頼まれたんですね」
「占星院の塔の警護に、騎士を二十名。星を読む儀のためだそうだ」
星を読む儀。
お清めの儀。
王国のための、大事な儀。
呼び名は、みんな違う。
けれど、たぶん、全部同じものだ。
私は、東の空を見上げた。
占星院の塔のてっぺんで、星の飾りが夕日に光っている。
聖女がいる。
声を測られた竜がいる。
満月の夜に役目を頼まれた第一王子がいる。
その夜の塔を守る騎士が、二十人いる。
もう一つの結末に要るものが、全部、この王都に揃っていた。
あの結末は、企画の段階で外した。
台本の、一行も、製品にはならなかった。
誰も知らないはずの結末だ。
それなのに、この世界の誰かが、それを書き直している。
↓第3章の番外編「ひと月に一人」(エドガー視点。西の塔の王子の、十年と五日間)
https://note.com/wise_turtle184/n/n62933605bc08?app_launch=false




