第34話 エドガーの問い
塔の階段を上りながら、何度も引き返そうと思った。
話せば、殿下は私をどう見るだろう。
話さなければ、私は殿下に嘘をつき続けることになる。
竜には、話した。
竜は、書いた者だと知っても、私を窓の娘のまま見てくれた。
でも、それは竜だからかもしれない。
いちばん上の扉の前で、私は一度だけ深く息を吸った。
二度、叩いた。
「どうぞ」
昨日と同じ、少しかすれた声だった。
◇
殿下は、窓辺の椅子を私にすすめた。
自分は、いつものように本の山に腰かける。
私は、座らなかった。
「殿下。お話ししなければならないことがあります」
「うん」
「信じてもらえなくても、いいです。でも、最後まで聞いてください」
殿下は、黙ってうなずいた。
私は、話した。
この世界に生まれる前に、別の世界で生きていたこと。
そこで、物語を書く仕事をしていたこと。
絵と声のついた、長い長い芝居の台本のようなもの。
聖女が王都に来て、王子や騎士団長と出会う物語。
その物語の中に、この王都があったこと。
大広間があって、薔薇園があって、練兵場があったこと。
北の山には竜がいて、百年分の台詞を書いたのに、削られたこと。
それから。
「その物語の、最初の版に、王子の兄がいました」
殿下の目が、少しだけ動いた。
「名前は、エドガー。第一王子。二十二歳。……私が、付けました」
部屋が、しんとした。
窓の外で、練兵場の騎士たちの掛け声が聞こえる。
ずいぶん遠くに聞こえた。
◇
殿下は、長いこと何も言わなかった。
膝の上で、指を組んだり、ほどいたりしている。
その指を、じっと見ていた。
「……それで、君は、私のことを知っている目をしていたのか」
「はい」
「私の顔も」
「絵の人に、描いてもらいました。そのときの絵と、同じ顔です」
殿下は、自分の頬に触れた。
まるで、初めてそこに顔があることに気づいたように。
「その、別の世界で、君はどうなった」
思いがけない問いだった。
殿下は、私の物語の話より先に、私のことを聞いた。
「働きすぎて、倒れました。最後に覚えているのは、会社の床の冷たさです」
「会社」
「物語を作る人たちが、集まって働く場所です。毎晩、遅くまで」
「物語を書きすぎて、死んだのか」
「書き終わらないうちに、です。竜の台本も、箱にしまったままでした」
殿下は、少し考えるように目を伏せた。
「では、君も、途中で消された人なのだね」
そんなふうに考えたことは、一度もなかった。
私は、何も言えずに、殿下の組んだ指を見ていた。
殿下も、それ以上は何も言わなかった。
しばらくして、殿下はもう一度顔を上げた。
「その物語の中で、私は何をする」
「何も、しません」
「何も?」
「没になったんです。台詞を一つも書く前に。予算と、スケジュールの都合で」
殿下は、小さく笑った。
笑ったのに、少しも楽しそうではなかった。
「それで、誰にも話しかけてもらえないのか。台詞が、ないから」
「それは」
違う、と言いたかった。
この世界の人たちが殿下を見ないのは、占星院の予言のせいだ。
私の台本のせいではない。
けれど、本当にそうだろうか。
私が台詞を一つも書かなかった人を、この世界は、誰とも話さない人にした。
竜も、そうだった。
台詞を削られた竜は、百年、誰とも話せなかった。
私は、答えられなかった。
◇
殿下は、立ち上がった。
窓辺まで歩いて、練兵場の竜を見下ろした。
「リタ。一つだけ、聞かせてくれ」
「はい」
「私は、何のために書かれたのだ」
逃げたかった。
適当な言葉で、ごまかしたかった。
前世の私なら、きっとそうした。
会議で答えにくいことを聞かれたら、資料をめくるふりをした。
でも、ここには資料はない。
あるのは、窓辺に立つ、私が書いた人だけだ。
「黒幕として、です」
殿下は、振り返らなかった。
「物語の最後に、聖女の邪魔をする役でした。王位を弟に譲らされた恨みで、聖女の光を憎んでいる。……そう、書きました」
「憎んでいる」
「でも、憎んでいる台詞は、一つも書いていません。殿下は、何も言わないまま、消されました」
殿下は、窓枠に手をついた。
細い肩が、少しだけ震えていた。
泣いているのかと思った。
笑っていた。
「おかしなものだね」
「……殿下」
「私は、聖女の光を憎んだことなんて、一度もない。会ったこともない。お披露目にも、呼ばれなかった」
殿下は、振り返った。
目が、少し赤かった。
けれど、まっすぐ私を見ていた。
「君が書いた私は、聖女を憎んでいた。でも、ここにいる私は、憎んでいない。それなら、私は誰なのだろう」
「殿下は、殿下です」
言ってから、星読みと同じ言葉だと気づいた。
同じ言葉なのに、少しも同じに聞こえなかった。
「何のために書かれたのかは、分かった」
殿下は言った。
「でも、何のためにここにいるのかは、まだ分からない」
◇
帰りがけに、殿下は、ふと思い出したように言った。
「そういえば、院長が言っていた。前の満月の前に、ここへ来たとき」
「何を、ですか」
「次の満月の夜、私に役目がある、と」
背中が、冷たくなった。
「役目、ですか」
「占星院の塔の上で、聖女の前に立ってほしい。国のための大事な儀だ、と。それ以上は、教えてくれなかった」
殿下は、少しだけ照れたように笑った。
「十年ぶりに、誰かに頼まれごとをした。嬉しかったんだ。だから、何の儀かは聞かなかった」
私は、扉の取っ手を握りしめていた。
満月の夜。
聖女の前に立つ。
私が、設定資料の最後の一行に書いた言葉と、同じだった。
「次の満月は、いつですか」
殿下は、窓の外の空を見上げて、指を折った。
「八日後だ」




