第33話 竜と話す娘
夜明け前に目が覚めるのは、騎士になってからの癖だ。
宿舎の窓の外は、まだ青い。
練兵場の真ん中で、竜が首を上げるのが見えた。
朝の空を告げる前に、竜はいつも一度、東の空を見る。
「今日は晴れ。風は南から。明日も晴れ。雲が高い」
竜の声が、王都の屋根の上を渡っていく。
二階の端の窓が開いた。
リタが、窓辺で帳面を開いている。
竜の声を、一行ずつ書き写しているのだ。
北の村でも、毎朝そうしていると、ヨナスが言っていた。
宿の入口の板に、炭で書くのだと。
今朝のリタは、目の下が少し暗かった。
眠っていないのかもしれない。
◇
俺は、あの娘のことを、ほとんど知らない。
北の村の宿屋の、一人娘。
十六歳。
竜の背に乗ってきたくせに、空は苦手。
母親の煮込みが、うまい。
知っているのは、それくらいだ。
知らないことの方が、ずっと多い。
なぜ、百年誰も知らなかった竜の言葉が分かったのか。
なぜ、騎士団が北へ来る前から、竜の前に立つ覚悟ができていたのか。
なぜ、岩棚で竜に、書いた者の責任だと言ったのか。
お披露目の日、リタはロルフに、この場面は知っていると言ったらしい。
聖女は、俺が言わなかった言葉に返事をした。
リタは、それを聞いても驚かなかった。
驚かなかったのは、たぶん、あの場で二人だけだ。
聖女と、リタと。
村を発つ朝、俺は、お前は何者だと聞いた。
リタは答えなかった。
今も、答えていない。
俺は、それでいいと思っている。
答えないのには、理由があるのだろう。
理由を言えない者を、無理に問いつめるのは、騎士のやることではない。
ただ、時々思う。
あの娘は、一人で何かを抱えすぎている。
◇
朝の稽古の前に、回廊でベルント卿に呼び止められた。
大臣の金の鎖を下げた、白髪の老人だ。
陛下にいちばん古くから仕えている人だ。
「ヴァレン卿。一昨日、練兵場で何かあったそうだな」
「は」
「私は、何も聞いておらん。陛下のお耳にも、何も入っておらん。そういうことにしておく」
ベルント卿は、それだけ言って歩きだした。
三歩行って、足を止めた。
こちらを振り返らずに、低い声で言った。
「……殿下は、お元気だったか」
俺は、少し迷ってから答えた。
「竜と、話しておられました。……少し、お痩せになっていましたが」
ベルント卿の背中が、一度だけ、小さく揺れた。
それから何も言わずに、回廊の向こうへ消えた。
十年、誰も殿下を見なかった王宮だ。
見なかったのではない。見ないふりをしていたのだ。俺も、その一人だった。
子どものころの殿下が、俺の父に剣を習ったことは、父から聞いていた。
その殿下が、塔で誰にも話しかけられずに暮らしていることも、知ってはいた。知っていて、一昨日まで、塔を見上げなかった。
◇
稽古のあと、俺は部屋から布の包みを持ち出した。
色あせた青い布だ。
端に、銀糸で、翼を広げた小さな鷹。
ヴァレン家の印。
北の岩棚で、竜から返された、父の槍の布だ。
姉に見せたら、泣いた。
父の葬儀の日から一度も泣かなかった姉が、布を抱いて、子どものように泣いた。
それから、この布は、俺の部屋の壁に掛けてあった。
練兵場の真ん中で、竜が日を浴びていた。
俺が包みを持って近づくと、金色の目を片方だけ開けた。
「ヴァレンの子か」
「竜よ。一つ、聞きたいことがある」
俺は、包みを開いて、布を見せた。
「二十年前、父はあなたの前で、何と言った」
竜は、しばらく布を見ていた。
「お前の父は、雪に埋もれながら、生まれたばかりの娘の名を呼んでいた」
「それは、聞いた」
「私が雪を掘って、引き出したとき」
竜は、少し間を置いた。
「お前の父は、槍を置いて、私に聞いた。お前は、泣いているのか、と」
息が、止まった。
北の竜は、泣いているように吠える。
父が、一度だけ、酔って言った言葉だった。
「私は答えた。だが、吠え声にしかならなかった。お前の父は、黙ってうなずいて、山を下りていった」
「……父は、何と聞こえたと思ったのだろう」
「分からん。だが、あの男は、槍を取りに戻らなかった」
竜は、首を少しだけ下げた。
「二十年、それで十分だった」
俺は、布を握りしめた。
父は、竜の答えを聞けなかった。
それでも、聞こうとした。
一人で山を登って、槍を置いて、聞こうとしたのだ。
俺は、布を自分の槍の柄に結んだ。
穂先のすぐ下に、青い布が垂れた。
「似合うか」
「お前の父より、結び方が下手だ」
竜は、喉の奥で低く笑った。
◇
宿舎に戻ると、ロルフが書状を持って待っていた。
「団長。占星院からです」
封蝋は、銀の星。
中身は短かった。
『次の満月の夜、占星院の塔の警護に、騎士二十名を貸し出されたし。院長、星を読む儀のため』
「星を読むのに、騎士が二十人も要るか」
ロルフが、髭をこすった。
「これまで、そんな頼みは一度もなかったぜ。満月なんて、毎月来るのにな」
「断る理由もない」
「そりゃそうだが」
俺は、書状を畳んだ。
二十人。
北の村へ連れていったのと、同じ数だ。
理由は分からない。
ただ、いい気はしなかった。
◇
昼過ぎ、リタが西の塔から戻ってきた。
槍に結んだ布を見て、リタは足を止めた。
「それ、お父様の」
「竜に、父の話を聞いた」
「……そうですか」
リタは、何か言いたそうな顔をして、言わなかった。
それから、少しだけ笑った。
寝不足の顔で、笑った。
「似合ってます」
「竜には、結び方が下手だと言われた」
「竜は、嘘をつきませんから」
俺は、笑いそうになって、やめた。
「眠っていないだろう」
リタの笑顔が、少しだけ揺れた。
「……明日、エドガー殿下に、話さなければならないことがあります」
「何をだ」
「私が、何者なのかを」
リタは、俺の目を見なかった。
練兵場の竜の方を見ていた。
「俺には、いつ話す」
自分でも、言うつもりのなかった言葉が出た。
リタが、驚いたように俺を見た。
灰色の空のような、迷った目だった。
「……いつか、必ず」
それだけ言って、リタは宿舎の階段を上っていった。
俺は、槍の布に触れた。
父は、竜の答えを聞けないまま、二十年を生きた。
その、いつかを、俺は待つことにした。




