第32話 リタの設定資料
その日も、私は塔に上った。
殿下は、北の村の話を聞きたがった。
白樺亭の厨房の窓のこと。
母さんの声の大きさのこと。
トマの笛と、ハンナおばあさんの昔話のこと。
殿下は、一つ聞くたびに、帳面に何かを書きつけた。
「何を書いているんですか」
「君の話だ。忘れないように」
「忘れても、また話します」
「そうだね。……そうだった」
殿下は、ペンを置いて笑った。
昨日より、少しだけ上手に笑えるようになっていた。
帰りがけに、殿下は窓の外の夕暮れを見ながら言った。
「リタ。君は、時々、私のことを知っているような目をする」
私は、扉の取っ手に手をかけたまま、動けなくなった。
「……気のせいです」
「そうか。気のせいなら、いいんだ」
殿下は、それ以上聞かなかった。
それが、かえって苦しかった。
◇
塔の入口を出ると、灰色の衣の男が立っていた。
胸に、銀の小さな星の留め金。
竜の声を測りに来た、占星院の星読みだった。
「お嬢さま。お待ちしておりました」
「私を、ですか」
「院長が、竜殿と話す娘に、ぜひお目にかかりたいと申しております。満月の前に、改めて塔へお招きいたします」
星読みは、丁寧に頭を下げた。
それから、私の後ろの塔を見上げた。
「殿下は、お元気でいらっしゃいましたか」
私は、息をのんだ。
王宮の誰もが、いないことにしている人だ。
侍従は、上にはどなたもいないと言った。
大臣は、柱の脇を通るように通り過ぎた。
「……殿下が、見えるんですか」
「見えるも何も。殿下は、殿下でいらっしゃいますから」
星読みは、穏やかに微笑んだ。
「院長は、殿下を大切にしております。王宮でただ一人、殿下のお話を伺っているのは、院長ですから」
そう言って、星読みは東の塔の方へ帰っていった。
夕暮れの中で、灰色の衣はすぐに見えなくなった。
私は、しばらくその場から動けなかった。
昨日カイルが膝をつくまで、この王宮で殿下を見ていたのは、占星院だけだったのだ。
◇
夜、宿舎の部屋で、私は帳面を開いた。
『竜の見立て』の、まだ白い頁。
そこに、覚えていることを書いていった。
前世の、設定資料。
エドガーの頁だ。
会社の机の、いちばん下の引き出しにしまっていた紙束。
企画の最初の版のころ、夜中に一人で書いた。
今でも、一字一字を思い出せる。
『エドガー。第一王子。二十二歳』
『幼いころは聡明で、王位を継ぐはずだった』
『表向きは病弱を理由に、王位継承権を弟に譲らされる。以後、王宮の奥の部屋に閉じこもる』
『本編の黒幕。聖女の光を、誰よりも憎んでいる』
『最終章、もう一つの結末で、満月の夜、聖女の前に立つ』
そこまで書いて、ペンが止まった。
黒幕。
あの人を、私はそう書いた。
温かいスープを両手で包んで、黙っていたあの人を。
三人も、と言ったあの人を。
◇
企画会議のことも、覚えている。
王子の兄が黒幕だと、乙女ゲームとしては重すぎる。
そう言われた。
予算も、スケジュールも、もう足りなかった。
竜のルートが削られた週に、エドガーも消えた。
聖女のもう一つの結末も、一緒に企画から外れた。
いちばん後ろの章から、順番に切られた。
竜も、黒幕も、もう一つの結末も、全部いちばん後ろにいた。
立ち絵のラフは、私が箱にしまった。
箱の上に、竜の台本を重ねた。
それきり、開けなかった。
資料集には、一行だけ残した。
『第一王子は病弱のため、王位継承権を弟に譲った』。
第二王子が王太子である理由を説明するのに、どうしても要ったからだ。
病弱。
あの一行を書いたとき、私は、エドガーのことを何も考えていなかった。
辻褄を合わせただけだった。
けれど、この世界のエドガー殿下は、病弱ではない。
本の山に膝をぶつけて、自分で崩した本を拾って、塔の階段を自分の足で下りられる。
王宮の奥の部屋ではなく、西の塔にいる。
理由は、占星院の予言だという。
私が書かなかった理由を、この世界は、何かで埋めた。
何で埋めたのか。
誰が埋めたのか。
それを、私は知らない。
◇
窓を開けると、すぐ下で、竜が目を開けた。
「眠れないのか」
「……少し」
竜は、首を窓の高さまで上げた。
金色の目が、帳面の頁を見た。
「何を書いた」
「エドガー殿下の、設定です。前世で、私が書いた」
「読め」
私は、声に出して読んだ。
黒幕、のところで、少し声が詰まった。
竜は、最後まで黙って聞いていた。
「あの人を悪役にしたのは、私です」
「まだ何もしていない者を、悪役とは呼ばん」
竜は、あっさりと言った。
「お前の紙の上では、あの者は悪役だったかもしれん。だが、今日あの者がしたことは、スープを飲んで、私と話して、お前の話を書き留めただけだ」
「……そうですけど」
「私も、お前の紙の上では、村を焼く竜だったのだろう」
私は、言葉に詰まった。
製品版の回想。
焼け落ちた白樺の看板。
騎士団に起こされて怒り、村を焼いて、討たれる竜。
その竜は今、宿舎の窓の下で、私が眠れないのを心配している。
「紙の上と、同じにはならん。お前が、そうしなかった」
竜はそう言って、首を下ろした。
砂の上で、また目を閉じた。
私は窓辺に頬杖をついて、夜空を見上げた。
◇
練兵場の上に、月が出ていた。
まだ細い。
けれど、昨日より少しだけ太っている。
これから、毎晩少しずつ丸くなっていく月だ。
殿下は、言っていた。
院長は、毎月、満月の前に塔へ来る、と。
私は、帳面の最後の一行を、もう一度見た。
『最終章、もう一つの結末で、満月の夜、聖女の前に立つ』
満月の夜、と書いたのは、私だ。
一枚絵の空に、大きな丸い月が欲しかった。
ただ、それだけの理由で。




