第31話 台詞のない王子
次の日、私は温かいスープを持って塔に上った。
宿舎の厨房を借りて、自分で作った。
玉ねぎと干し肉と、母さんの包みに入っていた乾いた香草。
白樺亭の、冬の朝のスープだ。
殿下は、湯気の立つ椀を両手で包んで、しばらく黙っていた。
「温かい」
「スープですから」
「そうだね。スープは、本当は温かいものなんだった」
殿下は、ゆっくりと一杯を飲みほした。
それから、窓の外を見た。
「竜と、話してみたい」
私は、椀を片づける手を止めた。
「塔を、下りるんですか」
「下りてはいけないとは、誰にも言われていない。誰も、何も言わないからね」
◇
塔を出ると、王宮の回廊を通って練兵場へ向かった。
殿下は、私の半歩後ろを歩いた。
外を歩くのは、ずいぶん久しぶりなのだという。
春の日差しに、何度も目を細めていた。
回廊の向こうから、立派な服の年配の男の人が歩いてきた。
胸に、大臣の金の鎖を下げている。
後ろに、書記を二人連れていた。
殿下が、足を止めて会釈をした。
「おはよう、ベルント卿」
大臣は、足を止めなかった。
目も、動かさなかった。
殿下のすぐ横を、まるで柱の脇を通るように通り過ぎていく。
書記の一人が、ちらりと殿下を見た。
すぐに目をそらして、早足で大臣を追いかけた。
「……今の人、聞こえていましたよね」
「聞こえていたよ」
殿下は、何でもないことのように言った。
「ベルント卿は、私が子どものころ、肩車をしてくれた人だ。私の誕生日には、毎年木彫りの馬をくれた」
「なのに」
「十二の冬から、私は、いないものになった」
回廊の窓から、東の空に、占星院の塔が見えた。
殿下は、その塔を見上げた。
「占星院の予言が出たんだ。第一王子が王冠をかぶれば、この国に明けない冬が来る、と」
「予言、ですか」
「外れたことのない塔の予言だ。父上は、その日から私を見なくなった。父上が見ないものを、王宮の誰も見ない」
殿下は、もう一度歩きだした。
私は、その半歩後ろをついていった。
占星院の予言は、外れたことがない。
冬の北の村で、カイルもそう言った。
けれど私は、外れた予言を一つ知っている。
◇
練兵場に着くと、柵の外の見物の人たちが、ざわっと揺れた。
殿下を見たからではなかった。
みんな、竜を見ていた。
殿下のことは、誰も見ていなかった。
竜が、首を上げた。
金色の目が、私を通り越して、殿下に止まった。
「塔の窓の者か」
殿下の肩が、びくりと揺れた。
「……私が、見えるのか」
「見える。毎朝、窓を開けて、私の声を聞いていた」
「聞いていた。帳面に、書き留めていた」
「知っている。お前は、窓辺で何か書いていた」
殿下は、柵に手をかけた。
指が、白くなるほど強く握っている。
「竜よ。百年、話せなかったと聞いた」
「そうだ」
「百年、どうしていた」
竜は、少し考えるように目を細めた。
「話しかけていた。答える者は、いなかったが」
「それでも、話しかけたのか」
「やめると、自分が何だったか、忘れそうだった」
殿下は、うつむいた。
長い黒髪が、顔を隠した。
私は、二人のあいだに立ったまま、何も言えなかった。
言えることが、何もなかった。
竜が、先に口を開いた。
「塔の窓の者。お前は、なぜ塔にいる」
殿下は、顔を上げた。
回廊で私に話したことを、竜にも話した。
十二の冬の予言のこと。
明けない冬のこと。
その日から、誰にも見られなくなったこと。
竜は、黙って最後まで聞いていた。
「その予言は、あの塔が言ったのか」
竜は、東の空の細い塔を、顎で示した。
「そうだ。外れたことのない予言だと、皆が言う」
「北でも、あの塔は予言をした。この冬に、竜が山を下りると」
「騎士団は、その予言で北へ来たんです」
私が言うと、殿下は私を見た。
それから、竜を見た。
「それで、下りたのか」
「下りなかった。冬至の日に一度、村はずれの雪原まで、祭りに下りただけだ」
竜は、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「あの塔の見立ては、北ではよく外れる」
殿下は、しばらく黙っていた。
それから、小さく、息を吐くように笑った。
「外れることも、あるのか」
塔の上で会ってから、初めての、思い出さずに笑った笑いだった。
◇
朝の稽古を終えた騎士たちが、宿舎から出てきた。
先頭のカイルが、柵の前で足を止めた。
殿下を見た。
一瞬、カイルの顔に迷いが走ったのが分かった。
後ろの騎士たちが、気まずそうに目をそらしている。
ロルフでさえ、髭をいじって空を見ていた。
カイルは、殿下の前に進み出た。
片膝をついて、頭を下げた。
「エドガー殿下。騎士団長、カイル・ヴァレンにございます」
練兵場が、しんと静まった。
殿下は、しばらく何も言わなかった。
それから、かすれた声で言った。
「……ヴァレン卿のご子息か。父君には、子どものころ、剣の持ち方を教わった」
「父から、聞いております。筋のいい王子だった、と」
「そうか」
殿下は、目を閉じた。
「そうか」
カイルは立ち上がって、何事もなかったように騎士たちに号令をかけた。
騎士たちは、慌てて走りだした。
ロルフだけが、すれ違いざまに、殿下に小さく頭を下げていった。
あとで聞いたら、カイルは短く言った。
陛下のお怒りを買うかもしれん、と。
それでも、と言いかけて、それきり何も言わなかった。
◇
日が傾くころ、私は殿下を塔まで送った。
階段のいちばん上で、殿下は振り返った。
「今日は、たくさんの人と話した。竜と、君と、ヴァレン卿と」
「三人だけです」
「三人も、だ」
殿下は、窓の外を見た。
東の空に、占星院の塔が、夕日を受けて赤く立っている。
「いつもは、ひと月に一人だけなんだ」
「ひと月に、一人」
「院長だ。占星院の」
殿下は、少しだけ嬉しそうに言った。
「毎月、満月の前に、ここへ来てくれる。院長だけが、私の話を聞いてくれる」




