第30話 塔の第一王子
「西の塔か」
朝の稽古のあと、カイルは汗を拭きながら、少しだけ黙った。
練兵場の柵の外には、今日も見物の人が並んでいる。
竜は空を告げ終えて、砂の上で日を浴びていた。
「昨日の夜、窓に灯りがついていました。人も立っていました」
「……あれは、第一王子殿下の塔だ」
第一王子。
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で、古い紙がめくれる音がした。
本編の資料集に、たった一行だけ残した設定がある。
『第一王子は病弱のため、王位継承権を弟に譲った』。
第二王子のユリウス殿下が、なぜ王太子なのか。
その説明のためだけに、残した一行だった。
本当は、企画の途中まで、王子の兄という人物がいた。
名前も決めて、顔も描いてもらって、設定も書いた。
それから、没になった。
立ち絵はラフのまま止まって、台詞は一つも書かれなかった。
残ったのは、資料集の一行だけだ。
「お体が弱く、西の塔でお暮らしだ。……ということに、なっている」
「なっている」
「王宮の者は、殿下の話をしない。陛下の前では、とくにだ」
カイルは、私の目を見た。
「会いに行くのは、止めない。だが、誰かに聞かれても、俺から聞いたとは言わない方がいい」
「どうしてですか」
「誰も、答えられないからだ」
◇
西の塔は、近くで見ると思ったより古かった。
石の壁は、蔦にびっしりと覆われている。
入口の木の扉は、半分だけ開いていた。
扉の脇に、盆が一つ置かれている。
盆の上には、冷めたスープと、硬そうなパン。
手をつけた跡はない。
塔の入口の前を、侍従が一人、足早に通り過ぎた。
新しい盆を、扉の脇に置く。
古い盆を持ち上げて、上も見ずに去っていく。
声をかける間もなかった。
私は、扉を押して中に入った。
石の階段が、ぐるぐると上へ続いている。
窓が小さくて、中は薄暗い。
上るほどに、息が白くなった。
春なのに、塔の中だけ冬が残っているようだった。
いちばん上に、扉が一つあった。
私は、二度叩いた。
「……どうぞ」
少しかすれた、若い男の人の声だった。
◇
部屋は、本で埋まっていた。
床から天井まで、壁という壁に本が積み上がっている。
窓辺の机の上にも、開いたままの本が何冊も重なっていた。
その窓から、練兵場の竜の背中がよく見えた。
机の前に、男の人が座っていた。
黒い髪が、肩に届くほど伸びている。
痩せていて、顔色が白い。
目は、薄い灰色に青を一滴落としたような色だった。
その顔を、私は知っていた。
前世で、絵の人に描いてもらった顔だ。
没になったあと、ラフのまま箱にしまった顔だ。
男の人は、私を見て、少しだけ目を見開いた。
「君は、竜の娘だな。昨日の夜、窓辺にいた」
「北の守り人の村の、リタです。勝手に上がって、すみません」
「いや」
男の人は、立ち上がろうとして、本の山に膝をぶつけた。
本が三冊、床に崩れた。
拾おうとして、また別の山を崩した。
私は、思わずしゃがんで一緒に拾った。
「ありがとう。……人がここまで上がってきたのは、久しぶりなんだ」
「あの、失礼ですが」
「エドガーだ。この国の、第一王子ということになっている」
エドガー。
企画書の、人物の欄の四番目に書いた名前だった。
王子の兄、エドガー。
二十二歳。
私は、本を抱えたまま、ゆっくり頭を下げた。
「……殿下」
「殿下、か」
エドガー殿下は、少しだけ笑った。
笑い方を思い出しながら笑う、というような笑い方だった。
「そう呼ばれるのも、久しぶりだ」
◇
殿下は、窓辺の椅子を私にすすめて、自分は本の山の上に腰かけた。
「竜を見ていた。来た日から、毎日」
「声も、ここまで届きますか」
「届く。毎朝、明日は晴れ、明後日は雨、と」
殿下は、机の上の帳面を一冊、私の方へ押した。
細い字で、日付と空模様が並んでいる。
来た日の次の朝から、一日も欠けていない。
「書き留めていたんですか」
「することがないからね。それに」
殿下は、少し言いよどんだ。
「朝、窓を開けると、誰かが私に向かって話しているような気がした。そんなはずはないのに」
私は、自分の帳面のことを思った。
同じ声を、同じ朝に、私も書き写していた。
「ご存じなんですか。竜が、百年話せなかったこと」
「侍従たちが、塔の下で話していた。北の竜は百年の呪いが解けて、人の言葉を話す。宿屋の娘が、それを解いた」
殿下は、窓の外を見た。
「この塔の下では、皆、何でも話していく。私がいても、いなくても同じだから」
「同じ、というのは」
「誰も、私に話しかけない。私が話しかけても、誰も答えない」
殿下は、責めるような口ぶりではなかった。
天気の話でもするように、静かに言った。
「最初は、聞こえていないのかと思った。だが、そうではなかった。皆、聞こえている。聞こえないことに、しているんだ」
「……いつから、ですか」
「覚えていない。気がついたら、そうだった」
盆のスープが、冷めていた理由が分かった。
扉の前に置いて、誰も声をかけない。
殿下が気づいたときには、いつも冷めているのだ。
私は、窓の外の竜の背中を見た。
百年、誰に話しかけても、吠え声にしか聞こえなかった竜。
話しても、誰にも聞いてもらえない王子。
どちらも、台詞を入れてもらえなかった。
入れなかったのは、私だ。
「君は、答えてくれるんだな」
殿下が言った。
「当たり前です。話しかけられたら、答えます」
「当たり前か」
殿下は、その言葉を舌の上で転がすように、もう一度言った。
「また、来てくれるか」
「来ます。明日も」
殿下は、何も言わずにうなずいた。
目の端が、少しだけ赤くなっていた。
◇
階段を下りると、塔の入口の前で、さっきの侍従が新しい盆を置いていた。
私は、思いきって声をかけた。
「あの、殿下のお食事は、温かいうちにお部屋まで運んではいけないんですか」
侍従は、きょとんとした顔で私を見た。
「殿下、とおっしゃいますと」
「上の、エドガー殿下です。今、お話ししてきました」
侍従は、困ったように眉を寄せた。
それから、とても丁寧に、頭を下げた。
「お嬢さま。この塔の上には、どなたもいらっしゃいませんよ」




