第29話 本編が歪んでいる
王都の朝も、竜は空を告げた。
「今日は晴れ。風は西から。明日も晴れ。明後日は、昼過ぎから雨だ」
練兵場に、竜の声が響く。
宿舎の窓という窓が、いっせいに開いた。
寝ぼけた顔の騎士たちが、窓から身を乗り出して空を見上げる。
私は、窓辺で帳面を開いた。
『竜の見立て』の、三冊目。
母さんが、包みの底に新しい帳面を入れてくれていた。
王国暦四百十三年、春。
王都、晴れ、西の風。
村の入口の板には、今朝は誰が書いているだろう。
竜は出がけに、十日分の空を告げてきた。
きっとトマが、毎朝その順番どおりに、炭で書いている。
◇
本編の筋書きを、私は全部覚えている。
お披露目の翌朝は、騎士団長のイベントだ。
王宮に慣れない聖女が、朝の散歩で道に迷い、練兵場に迷い込む。
そこで、誰もいない練兵場で一人で剣を振る騎士団長を見つける。
けれど今、練兵場の真ん中には、竜が腹ばいになっている。
柵の外には、朝から見物の人だかりがある。
誰もいない練兵場は、もうどこにもない。
それでも、聖女は来た。
人だかりの後ろから、白い衣が見えた。
侍女が二人、困った顔でついてくる。
ちょうどそのとき、カイルが宿舎から出てきた。
竜に朝の挨拶をして、私の窓を見上げる。
私は窓から手を振った。
リリアが、柵のところまで来て足を止めた。
カイルを見て、胸の前で手を組んだ。
「こんな朝早くから、お一人で稽古ですか」
カイルが、振り返った。
まわりには、見物の人が三十人はいた。
窓から身を乗り出した騎士たちと、腹ばいの竜と、窓辺の私もいた。
カイルは、剣を持ってすらいない。
「……一人では、ないが」
リリアは、にっこり笑った。
「わたし、道に迷ってしまって。ここは、どこですか」
カイルは、黙って柵の外の侍女を見た。
侍女たちが、深々と頭を下げた。
聖女の白い衣が、人だかりの向こうへ戻っていった。
カイルが、私の窓の下まで来た。
見上げて、低い声で言った。
「去年の冬までは、毎朝ここで一人で剣を振っていた」
「……そうなんですか」
「夜明け前に。誰もいないうちにだ。北から戻ってからは、やめた」
「どうして」
「一人で振っていると、岩棚の朝を思い出す。だから、騎士たちと並んで振ることにした」
窓の下で、竜が片目を開けた。
「昨日の夕方も、皆で振っていたな。お前の振りは、少し右に流れる」
「……竜に剣を見られるとは、思わなかった」
私は、思わず笑ってしまった。
カイルは笑わなかった。
「聖女は、なぜ俺が一人で稽古をすると知っていた」
私は、笑うのをやめた。
答えられないまま、帳面を閉じた。
◇
次の日、占星院から人が来た。
灰色の衣の、痩せた男だった。
胸に、銀の小さな星の留め金。
腕に、細長い銅の筒を抱えている。
男は、練兵場の柵の前で、竜に向かって丁寧に頭を下げた。
「占星院の星読みです。院長の言いつけで、竜殿のお声を測りに参りました」
「声を、測る」
「お声の高さと、長さと、響きです。どうか、何か仰ってください」
星読みは、銅の筒の口を竜に向けた。
筒の反対側に耳を当てて、目を閉じる。
竜は、しばらく星読みを見下ろしていた。
「明日は、昼過ぎから雨だ」
星読みが、筒から耳を離した。
懐から紙を出して、細い字で何かを書きつける。
「……明日は、晴れのはずですが」
「雨だ」
「占星院の見立てでは、晴れです。明日の昼には、王太子殿下が聖女様を薔薇園の茶会にお招きになります。そのために、日を選んで差し上げたのですから」
王太子と聖女の、薔薇園のイベント。
本編の、いちばん華やかな一枚絵の場面だ。
青い空、満開の薔薇、殿下が聖女に一輪を差し出す。
竜は、ゆっくりと目を細めた。
「お前たちの見立ては、北では外れる」
「ここは、北ではありません」
「ならば、明日、空を見ろ」
星読みは、何も言わずにもう一度頭を下げた。
筒を抱えて、東の塔の方へ戻っていった。
去り際に、一度だけ振り返った。
見ていたのは、竜ではなかった。
窓辺の私だった。
◇
雨は、昼過ぎから降りだした。
最初はぽつぽつと、それからすぐに本降りになった。
薔薇園の茶会は、取りやめになった。
ロルフが、濡れた外套を払いながら宿舎に駆け込んできた。
「竜の見立てどおりだ。占星院の連中、真っ青だったぜ」
「茶会は」
「流れた。殿下と聖女様は、回廊で雨宿りしながら、ちょっと話しただけだとさ」
「どんな話を」
「ヨナスが回廊の番だったんだがな。殿下ばかりがしゃべって、聖女様は、にこにこ聞いてたそうだ。最後に一言だけ、光の導きのままに、と」
「それだけ、ですか」
「それだけだ。殿下は、ずいぶん感激してたらしいがな」
ロルフは、首をかしげて笑った。
回廊の雨宿り。
本編には、そんな場面はない。
一枚絵も、台詞もない。
台詞のない場面で、あの子は、困ったときの一言しか言えなかった。
私が書いた、どの場面でも使える一言しか。
窓の外で、竜が雨に打たれていた。
気持ちよさそうに、翼を少しだけ広げている。
竜が一頭、生きているだけだ。
それだけで、私の書いた筋書きは、少しずつずれていく。
騎士団長は一人で稽古をしなくなり、薔薇園には雨が降る。
ずれた先のことを、私は何も知らない。
◇
夜になって、雨が上がった。
私は窓を開けて、湿った空気を吸った。
雲の切れ間から、星が少しだけ見えている。
練兵場の西に、古い塔が一本立っていた。
占星院の塔よりずっと低く、蔦にびっしりと覆われている。
本編の背景にも、遠くに描かれていた塔だ。
背景の資料の名前は『王宮・西の塔(使われていない)』。
誰も住んでいない塔として、私が絵の人に頼んだ。
その塔の、いちばん上の窓に、灯りがともっていた。
窓の向こうに、人の影が立っている。
こちらを、じっと見ている。
私は、窓枠を握りしめた。
あの塔に、誰かが住んでいるという設定を、私は書いていない。




