第27話 竜が王都に降りる
王宮の前には、石畳の広場がある。
前世の私は、その広場を背景の絵として何度も見た。
本編の第一章で、聖女を乗せた馬車が着く場所だ。
噴水が一つ、鳩が少し、花売りの屋台が三つ。
その広場に、竜が降りた。
翼が風を叩いて、屋台の布がいっせいにめくれ上がった。
鳩が一羽残らず飛び立った。
噴水の水が、横に流れた。
竜の足が石畳に着くと、広場がずしんと揺れた。
それから、静かになった。
花売りのおばさんが、花の籠を抱えたまま固まっている。
荷車を引いていた男が、荷車ごと後ずさる。
どこかで、子どもが泣き出した。
私は、竜の首の付け根にしがみついたまま、まだ目を開けられなかった。
◇
「着いたぞ」
竜が言った。
その声が、広場の隅々まで響いた。
人々がいっせいに、もう一歩下がった。
「……着いたんですね」
「目を開けろ」
「開けたら、地面までの高さが見えます」
「もう地面だ」
おそるおそる目を開けた。
本当に、地面だった。
私は竜の肩から、ずるずると滑り降りた。
膝が笑って、石畳に座り込んだ。
二日がかりの空の旅の、やっと終わりの地面だった。
広場の向こうで、鐘が鳴りはじめた。
王宮の門が開いて、槍を持った衛兵が駆け出してくる。
十人、二十人。
槍の穂先が、日の光をはじき返した。
「止まれ! その獣から離れろ、娘!」
先頭の衛兵が叫んだ。
槍の先が、ぶるぶると震えている。
竜が、少しだけ首を傾けた。
「獣と呼ばれるのは、久しぶりだ」
「しゃ、しゃべった……」
「北から来た。王に呼ばれた娘を、運んできただけだ」
衛兵たちが顔を見合わせた。
誰も、槍を下ろさない。
誰も、それ以上近づかない。
岩棚の朝と、同じだった。
人は、知らないものの前では、槍を構えるしかないのだ。
私は膝の震えを我慢して、立ち上がった。
衛兵と竜のあいだに、一歩出る。
「あの、北の守り人の村、白樺亭のリタです。王さまのお呼びで参りました。この竜は、ヴェルグです。人を食べたりはしません」
「娘、下がれと言っている!」
「パンも食べません」
衛兵の何人かが、ぽかんと口を開けた。
そのとき、広場の北から、蹄の音が近づいてきた。
◇
二騎だった。
先を駆けてくる馬の上に、銀の髪が見えた。
後ろの大柄な騎士が、髭の中で大口を開けて笑っている。
「槍を下ろせ」
銀の髪の騎士が、馬の上から言った。
大きな声ではなかった。
それでも、衛兵たちはいっせいに槍を立てた。
「騎士団長のヴァレンだ。この竜と娘は、陛下の客人だ。持ち場に戻れ」
衛兵たちが、ほっとした顔で下がっていく。
カイルが、馬から下りた。
冬に岩棚で見たときより、少し髪が伸びている。
左頬の古傷は、そのままだった。
カイルは、まず竜の前に立って、頭を下げた。
「竜よ。遠いところを、よく来てくれた」
「城の外の草地に降りると、思っていた。練兵場の者を、そちらに待たせてある」
「誰も、そうは言わなかった」
カイルは、少しだけ目を閉じた。
それから、私の方を向いた。
「……リタ」
「お久しぶりです、団長さん」
「よく来た。手紙の返事、読んだ」
「短い手紙で、すみません」
「三度、読んだ」
何と返していいか分からなくて、私は外套の裾を払った。
後ろで、ロルフさんが馬から下りながら吹き出した。
「上等上等。嬢ちゃん、王都の真ん中に竜で乗りつけた娘は、王国の歴史で初めてだぜ」
「真ん中はやめてくださいって、言ったんです」
「竜の方は聞かなかったわけだ」
「聞こえないふりをされました」
竜が、喉の奥で低く笑った。
広場の端で、また誰かが悲鳴を上げた。
◇
竜は、王宮の北にある騎士団の練兵場に移ることになった。
城壁の内側の、砂を敷いた広い場所だ。
竜は翼を畳んで、練兵場の真ん中に腹ばいになった。
砂が温かいらしく、満足そうに目を細めている。
練兵場の柵の外には、すぐに人だかりができた。
騎士の見習いたちが、木剣を抱えたまま首を伸ばしている。
その中から、少年のような顔の騎士が一人、駆け寄ってきた。
「リタ殿! 本当に、竜の背で来られたのですね」
「ヨナスさん。……来ました。空は、二度と嫌です」
「帰りも、竜の背では」
「それは、帰るときに考えます」
ヨナスさんは笑って、竜の前で深く頭を下げた。
竜は、片目だけ開けて、また閉じた。
冬に大岩で謝られたことを、覚えているのだろう。
ロルフさんが、私の荷物の包みを肩に担いだ。
「おかみさんの包みか。いい匂いがするな」
「干し肉と、蜂蜜のパンです。ロルフさんの分もあるって、母さんが」
「上等上等。煮込みじゃねえのが惜しいが」
練兵場の東の空に、細い塔が見えた。
王宮の屋根の向こうに、ひときわ高く突き出している。
てっぺんの星の飾りが、夕方の光を受けて白く光った。
竜が、目を閉じたまま言った。
「あの塔から、ずっと見られている」
「占星院の塔です。星を読む人たちの」
「星を読む者が、昼に何を見る」
私は、答えられなかった。
地図に四角を一つ描いて、名前を書いただけの建物だ。
中に誰がいて、何をしているのか、私は知らない。
私の部屋は、練兵場の隣の騎士団の宿舎に用意されていた。
二階の端の、窓の大きな部屋だった。
窓を開けると、すぐ下に竜の金色の目がある。
「王宮の客間も、用意できると言われた」
部屋まで荷物を運んでくれたカイルが、言った。
「だが客間だと、侍女が三人つく。朝の湯も着替えも、全部人の手でやる」
「それは……困ります」
「だろうと思った」
「ありがとうございます、団長さん」
カイルが、少し眉を寄せた。
「その呼び方は、やめてくれ」
「え」
「王都には、団長が何人もいる。近衛にも、衛兵にも。お前が『団長さん』と呼ぶたびに、廊下の誰かが振り向く」
それは、本当に困るのだろうか。
カイルの灰色の目は、窓の外の竜の方を見ていた。
「カイルでいい」
少し間があった。
「……カイル」
「ああ」
それだけ言って、カイルは戸口の方を向いた。
左の耳が、少し赤かった。
それも、私は書いていない。
「明日、王宮の大広間で、聖女のお披露目がある」
戸口で、カイルが振り返った。
「陛下が、お前と竜にも出よと仰せだ。竜は大広間に入らんから、庭に面した窓を開けておく」
「聖女様は、もう王都に」
「今朝、着いた。南の神殿から、馬車を急がせて七日だそうだ」
私はうなずいた。
カイルが出ていって、扉が閉まった。
窓の外で、竜が首を上げた。
「明日は、何がある」
「本編の、第一章の最後の場面です」
大広間の高い窓。
赤い絨毯。
玉座の前に進み出る、白い衣の聖女。
王子が手を取り、騎士団長が膝をつく。
明日の大広間で誰が何を言うのか、私は一行目から最後まで知っている。
そのはずだった。




