第26話 空はちょっと
使者は、最後まで渋い顔をしていた。
「王の仰せは、王都へ参られたし、です。竜に乗って参られたし、とは仰せになっておりません」
「でも、来るなとも仰せになってませんよね」
私が言うと、使者は白い手袋の指で、こめかみを押さえた。
しばらく黙ってから、深いため息をついた。
「……ヴァレン卿に、鳩を飛ばします。竜が娘を乗せて、二日で王都へ参る、と。王宮の皆さまが、腰を抜かさねばよいのですが」
迎えの馬車は、空のまま南へ帰ることになった。
◇
出発の朝、竜の見立ては「一日晴れ。風は弱い。空を行くには、よい日だ」だった。
最後の一言は、いらないと思った。
竜は、尾根から下りてきて、村はずれの雪原に身を伏せていた。
冬至の日と同じ場所だ。
雪はもうほとんど解けて、枯れ草の間から、小さな緑が顔を出している。
出かける前に、竜は、村の人たちに向かって、留守のあいだの空を告げた。
「この先十日は、晴れと雨が交互に来る。大きな崩れはない。雪崩の季節は、もう終わった。沢の水が増えるから、子どもを近づけるな」
私は、その十日分を、入口の板と帳面に書いた。
字は、冬の初めよりずっとまっすぐになっていた。
「十日より先は」
村長が、帽子を握りしめて聞いた。
「空を、自分で見ろ。百年、そうしてきたのだろう」
竜は、そう言ってから、少しだけ付け足した。
「すぐに戻る」
◇
母さんは、夜明け前から厨房で何か作っていた。
出がけに、布で包んだ重い包みを、私の腕に押しつけた。
「蜂蜜のパンと、干し林檎の焼き菓子。それから、煮込みを小さい壺に詰めといた。竜の背中でこぼすんじゃないよ」
「こぼさないよ」
「王さまの前で、変なこと言うんじゃないよ。それから、ちゃんと食べな。それから」
母さんは、そこで言葉を切った。
前掛けで、乱暴に目元をこすった。
「……それから、帰ってきな。ばか娘」
「うん」
母さんは、私を抱きしめた。
冬に、広場で抱きしめられたときと同じ、パンの匂いがした。
父さんは、竜の首の付け根に、馬具の革紐を巻きつけていた。
私がしがみつくための、手綱の代わりだ。
竜は、されるがままになっていた。
父さんは、もう木の陰に隠れたりしなかった。
革紐を結び終えると、父さんは私の方を向いた。
「空が怖けりゃ、下を見るな。前を見ろ」
「……うん」
父さんは、少し黙った。
それから、いつもより少しだけ長く、言葉を続けた。
「お前は、六つの冬から、何か知ってる顔をしてる。何を知ってるのかは、まだ知らん」
父さんの大きな手が、私の頭に置かれた。
「帰ってきたら、聞かせろ」
私は、返事ができなかった。
ただ、頷いた。
ハンナおばあさんは、鍛冶屋のおじさんの腕につかまって、雪原の端に立っていた。
「竜の背に乗った守り人の娘の話は、祖母の昔話にも無かった。帰ってきたら、わしに一番に話しておくれ」
「はい。一番に」
「死ぬまでに、聞かせておくれよ」
おばあさんは、そう言って笑った。
◇
竜の首の付け根に、またがった。
鱗は、思っていたより温かかった。
父さんの革紐を、両手でしっかりと握る。
「いいか、リタ」
竜の声が、背中越しに響いた。
体じゅうに、声が伝わってくる。
「よくないです」
「そうか。では、行くぞ」
「聞いてました?」
竜が、翼を広げた。
雪原の枯れ草が、一斉に波打った。
二度、三度。
大きな羽ばたきのたびに、体がふわりと持ち上がり、また沈む。
四度目で、沈まなかった。
地面が、遠ざかっていく。
私は、目をつぶった。
革紐を握る指が、白くなっているのが分かった。
胃の底が、すうっと冷たくなる。
前世の最後の記憶は、会社の床の冷たさだった。
床があるだけ、まだましだったのかもしれない。
下から、細い音が上ってきた。
四拍、休み、三拍、休み。
トマの笛だった。
「目を開けろ、リタ」
「無理です」
「書いた者の責任だろう」
「それ、便利に使いすぎです」
それでも、私は目を開けた。
前を見ろ、と父さんは言った。
だから、前を見た。
北の山が、すぐ横にあった。
十年、毎晩、厨房の窓から見上げてきた山だ。
その山を、今、私は同じ高さから見ている。
それから、ほんの少しだけ、下を見た。
ハルデ村が、手のひらに乗るくらい小さかった。
広場で、豆粒のような人たちが手を振っている。
白樺亭の煙突から、細い煙が一本上がっていた。
母さんが、今朝、煮込みを詰めた竈の煙だ。
「……ヴェルグ」
「何だ」
「やっぱり、空はちょっと、無理です」
竜の喉の奥で、ごろごろと低い音が鳴った。
笑っているのだ。
背中に乗っていると、それが体じゅうに響いて、よく分かる。
竜は、ゆっくりと南へ向きを変えた。
その日の夕方、竜は名前も知らない山の岩棚に下りた。
北の山の岩棚より、ずっと狭い。
私は、革紐を握りしめていた指を、一本ずつ引きはがすように開いた。
しばらく、手の形が元に戻らなかった。
母さんの包みを開けると、煮込みの壺は、一滴もこぼれていなかった。
蜂蜜のパンを一つ、竜の鼻先に置いてみた。
竜は匂いを嗅いだだけで、首を振った。
「冬至の夜に一口、だ」
「それは、蜂蜜酒の話でしょう」
「パンも同じだ」
その夜は、竜の翼の下で眠った。
風の音がしても、少しも寒くなかった。
目を閉じる前に、北の空を見上げた。
冠のような七つの星の下に、小さな星が一つ、瞬いていた。
◇
二日目の昼、山と森と川をいくつも越えた先に、白い城壁が見えた。
城壁の中に、屋根がびっしりと並んでいる。
真ん中に、王宮の尖塔。
その東に、ひときわ高い、細い塔が一本立っていた。
塔のてっぺんに、星の形の飾りが光っている。
前世で描いた王都の地図を、私は覚えていた。
王宮の東に、小さな四角を一つ描いて、名前だけを書いた。
占星院。
その名前だけの建物が、本当に、そこに建っていた。
「降りるぞ」
竜が言った。
「どこにですか」
「真ん中だ。いちばん目立つ」
「真ん中は、やめてください!」
竜は、聞こえないふりをした。
翼が、大きく傾いた。
王都の屋根が、ぐんぐん近づいてくる。
↓第2章の番外編「燃え残りの一行」(ヨナス視点。手紙を届けた騎士の、北への往復)
https://note.com/wise_turtle184/n/n27c292846c67?app_launch=false




