第25話 聖女の目覚め
冬は、竜の見立てどおりに過ぎていった。
帳場の『竜の見立て』の帳面は、二冊目に入った。
晴れ、雪、吹雪、晴れ。
毎朝、尾根から降ってくる声を、私は一行ずつ書き写した。
竜の見立ては、一度も外れなかった。
暦の下の端の占星院の見立ては、月に一度も当たらなかった。
峠の行き来は、例年の倍になった。
白樺亭の客室は、雪の深い時期でも半分は埋まっていた。
母さんは、春に屋根の雪囲いを直す大工を、もう頼んである。
倉の麦は、雪が緩みはじめたころに、荷馬車で返ってきた。
麦袋の口には、北の村々の焼き印が押してあった。
十二年分には、とても足りない。
それでも村長は、荷馬車の前で帽子を取って、長いこと頭を下げていた。
炭焼き小屋の上の古い道には、村の若い衆が杭を打って、縄を張った。
大岩より上へ行ってはいけない、という決まりは、いつの間にかなくなった。
晴れた日には、子どもたちが縄をたどって、尾根の竜のところまで昔話を聞きに行く。
トマは、北の空の星を、四十個も言えるようになった。
竜の守り人の村が、少しずつ戻ってきていた。
◇
雪が解けはじめると、竜の声は、毎朝少しずつ違うことを告げるようになった。
「今日は晴れ。南から暖かい風。沢の氷が割れる。子どもを沢に近づけるな」
「昼から雨。雪解けの水で、街道の二本杉の先がぬかるむ」
雪が雨になり、雨が土の匂いになった。
白樺の枝の先が、少しずつ赤みを帯びていく。
私は、柱の暦をめくるたびに、指で日を数えた。
春分の日が、近づいていた。
◇
春分の朝、私は夜明け前に目を覚ました。
厨房の窓を開けると、空の端が白みはじめていた。
山の雪は、もう半分ほど解けている。
尾根の上の竜は、まだ何も言わない。
春分の朝、南の神殿の鐘が鳴る。
神殿で働く身寄りのない娘が、祭壇の前で光に包まれて、聖女として目覚める。
本編の、一行目だ。
私が書いた。
企画会議で、何十回も書き直した一行だった。
主人公の名前は、遊ぶ人が自由に変えられる。
けれど、名前を変えなかった人の画面には、最初から決まった名前が出る。
その名前も、私が付けた。
南の空を見た。
南の神殿は、ここから馬で二十日もかかる。
鐘の音が、届くはずもない。
尾根の上から、いつもの声が降ってきた。
「今日は、一日晴れ。南から、暖かい風」
それだけだった。
いつもと、何も変わらない朝だった。
本当に、今朝、聖女は目覚めたのだろうか。
竜のルートが開いて、村が焼けなかったこの世界で、本編は書いたとおりに始まるのだろうか。
分からない。
分からないまま、私は入口の板に、今日の空を書いた。
◇
五日後、王都からの使者が来た。
騎士が四騎と、紋章のついた馬車が一台。
使者は、白い手袋をはめた、背筋のまっすぐな中年の男だった。
広場で巻物を広げて、よく通る声で読み上げた。
「北の守り人の村、白樺亭のリタ。王の仰せにより、王都へ参られたし」
広場じゅうの人が、私を見た。
母さんが、私の外套の袖をつかんだ。
ハンナおばあさんが、杖をついたまま、ほう、と息を吐いた。
トマは、鍛冶屋のおじさんの脚の後ろから顔を出して、使者の馬車をじろじろ見ている。
「リタ姉ちゃん、王さまのところに行くの?」
「……そうみたい」
「おれも行く」
「トマは、笛があるでしょう。竜の天気を、誰が笛で受け取るの」
トマは、首の革紐の笛を握りしめて、しばらく考えていた。
それから、むっとした顔で言った。
「じゃあ、帰ってきたら、王さまの話、全部して」
使者は巻物を巻き戻すと、私に向かって、少しだけ声を和らげた。
「騎士団長ヴァレン卿より、言付けもお預かりしています。この馬車に乗ってくるように、と」
それから、使者は、まるで天気の話でもするように付け足した。
「それから、たいへんな慶事がございました。春分の朝、南の神殿で、聖女さまが目覚められたのです。神殿から国じゅうの町へ鳩が飛びまして、私どもは南の町で、その報せを受け取ってまいりました」
心臓が、一つ大きく跳ねた。
「お名前は、リリアさまと」
リリア。
私が付けた名前だった。
名前を変えなかった人の画面に、最初から出る名前。
「聖女さまは、これから王都へ上られます。王宮でお披露目がございますから、ちょうど、あなたが王都に着かれるころでしょう」
使者は、にこやかに言った。
私は、うまく笑えなかった。
聖女が王都に上り、王宮でお披露目がある。
そこで、攻略対象の王子と、騎士団長に出会う。
本編の第一章だ。
けれど、本編の王都に、竜と話せる娘は呼ばれない。
本編に、そんな娘は出てこないからだ。
本編が、始まった。
けれど、もう、私の書いたとおりには進まない。
それに、本編の最後に用意されていた結末は、一つではなかった。
使われなかった、聖女のもう一つの結末。
竜のルートと同じころに、企画から外された。
どんな結末だったかは、覚えている。
覚えているから、この冬のあいだ、ずっと考えないようにしてきた。
あれは、竜にとって、いい結末ではなかった。
「馬車は、二日後の朝に出ます。王都までは、二十日ほどの旅になりましょう」
使者がそう言ったとき、尾根の上から声が降ってきた。
「二十日もかかるのか」
使者が、ぎょっとして山を見上げた。
騎士たちが、馬の手綱を握りしめる。
「私の背なら、二日だ」
竜の声は、どこか楽しそうだった。
私は、目を閉じた。
冬至の夜、岩棚で自分が言ったことを思い出していた。
私、高いところは平気ですけど、空はちょっと。




