第24話 カイルの手紙
冬至から十日たった昼、峠から一騎、馬が下りてきた。
騎士団の青い外套だった。
広場で馬を止めて、兜を脱ぐ。
まだ少年のような顔の、若い騎士だった。
見覚えがあった。
岩棚で竜が初めてしゃべったとき、泣き笑いのような顔で雪の上に座り込んでいた、いちばん端の騎士だ。
「白樺亭の、リタ殿に。団長から、手紙を預かってまいりました」
若い騎士は、馬から下りて、私の前で背筋を伸ばした。
母さんが、厨房の戸口で目を丸くしている。
リタ殿、なんて呼ばれたのは、生まれて初めてだった。
「あの、ヨナスと申します。王都から、早馬を乗り継いで十日で参りました。岩棚で、その」
「座り込んでいた人ですよね」
「……覚えておいでで」
ヨナスは、耳まで赤くなった。
◇
手紙は、厚い紙に、几帳面な字で書いてあった。
封蝋には、翼を広げた小さな鷹。
カイルの父の槍布と、同じ紋だった。
厨房の卓で、私は封を切った。
『白樺亭の娘へ。
王都に戻って、報告を上げた。
竜が言葉を話し、呪いが解け、討伐は取りやめた、と書いた。
最初は、誰も信じなかった。
騎士団長が竜に化かされた、と言う者もいた。
二十一人が同じことを書いたので、ようやく王の耳に届いた』
私は、少し笑った。
村の広場で聞いたのと、同じ言葉だった。
『占星院は、予言は外れていない、と言っている。
竜はいずれ山を下りる、まだ冬は終わっていない、と。
院長が、竜と話す娘に会ってみたい、とも言っているそうだ。
俺は、占星院のことはよく知らない。
ただ、父も、占星院の話をするときだけは、口が重かった』
私は、手紙から顔を上げた。
厨房の柱の暦が、目に入った。
月ごとの空の見立ての、小さな字。
占星院の院長。
地図に建物の名前を一つ書いただけの役所に、院長がいる。
その人の顔も、名前も、私は書いていない。
『その後、ローデン伯の鳩が、王都へ書状を届けた。
北の竜は兵器ではなく、守り人である、と。
代官の件も聞いた。
竜が荷馬車を数えていたと聞いて、ロルフが腹を抱えて笑っていた。
王が、竜と話せる娘を王都に呼べと仰せだ。
春になったら、迎えをやる。
断ることもできる。
ただ、俺は、お前が来るなら、もう一度、話を聞いてみたい』
そこで、少しだけ字が乱れていた。
何度か書き直した跡が、紙の裏から透けて見える。
もう一度、話を聞いてみたい。
ゲームの中のカイルは、誰の話も聞かない人だった。
父親のことを誰にも話さず、ヒロインが何を言っても、短く「そうか」と返すだけ。
彼が自分から「話を聞きたい」と言う台詞は、本編のどのルートにもない。
手紙の中のカイルは、もう、私が書いたとおりのカイルではなかった。
『姉に、父の槍布を見せた。
姉は、長いこと黙っていた。
雪の中で父が呼んだ名前が自分のものだったと話すと、泣いた。
姉の泣く顔を見たのは、父の葬儀の日以来だ。
礼を言う。
カイル・ヴァレン』
その下に、まったく違う、大きくて丸い字で一行。
『嬢ちゃん、おかみさんの煮込みが恋しいぜ。ロルフ』
私は、手紙を胸に当てて、しばらく動けなかった。
◇
「王都、だって?」
母さんの声が、厨房じゅうに響いた。
「王さまが? うちの娘を? なんでまた」
「竜と話せるから、だと思う」
「竜と話せる娘なんて、ほかにいないのかい。いないんだろうけどさ」
母さんは、前掛けを握りしめたまま、卓の周りをぐるぐる歩いた。
それから、急に立ち止まって、私を見た。
「あんた、行きたいのかい」
すぐには、答えられなかった。
王都は、本編の舞台だ。
春になれば、南の神殿で聖女が目覚めて、王都へ上る。
攻略対象の王子がいて、騎士団長のカイルがいて、物語が始まる。
私は、その物語の台詞を、ほとんど全部知っている。
けれど、竜のルートが開いた今、本編がそのとおりに進むのかは、分からない。
占星院のことも、院長のことも、私は知らない。
知らない場所へ、知っているつもりで行くのが、いちばん危ない。
それでも。
「行きたい、と思う」
私は、言った。
「削られて、黙ったままの人たちがいるの。竜みたいに」
母さんは、何か言いかけて、口をつぐんだ。
帳場で、父さんが帳簿を閉じる音がした。
「春までは、まだある」
父さんは、それだけ言った。
◇
夕方、ヨナスは大岩の前まで行った。
尾根を見上げて、兜を脱いで、深く頭を下げた。
「あのときは、座り込んでしまって、申し訳ありませんでした」
尾根の上から、低い声が降ってきた。
「いちばん端にいた騎士か」
ヨナスの背中が、びくりと跳ねた。
「泣きながら笑っていたな。悪くない顔だった」
ヨナスは、もう一度、さっきより深く頭を下げた。
宿へ戻る道でも、何度も山を振り返っていた。
ヨナスは、その晩、白樺亭に泊まった。
母さんの煮込みを三杯お代わりして、ロルフ副長が恋しがるのも分かります、と真顔で言った。
「団長は、その手紙を三度書き直されました」
暖炉の前で、ヨナスがこっそり教えてくれた。
「一度目は、報告書みたいだとロルフ副長に笑われて。二度目は、長すぎると自分で破って。三度目のを、私が預かりました」
「……そうなんですか」
「団長があんなに字を書き直すのを、初めて見ました。あ、これは、内緒です」
内緒、と言いながら、ヨナスは嬉しそうだった。
◇
その夜、私は返事を書いた。
前世では、毎日何千字も書いていた。
なのに、カイルへの返事は、一行目から進まなかった。
団長さんへ、と書いて、消して、また書いた。
結局、短い手紙になった。
村が焼けなかったこと。
代官のこと。
冬祭りで、竜が歌ったこと。
春になったら、竜の背に乗って行くかもしれないこと。
最後に、少し迷ってから、名前を書いた。
『宿屋の娘、リタ』
明日の朝、ヨナスに預けるつもりだった。
窓を開けると、尾根の上から声が降ってきた。
「王都か」
「聞いてたんですか」
「お前の母親の声は、尾根まで届く」
竜は、少し黙った。
「百年ぶりだ。人の王の都は」
南の空に、冬の星が瞬いていた。
あの空の下で、春分の朝、聖女が目覚める。
私が書いた、本編の一行目だ。




