第23話 冬至の夜
冬至の夜、私は蜂蜜酒を一瓶抱えて、岩棚に登った。
炭焼き小屋の脇から入る、古い山道だ。
沢を二つ越えて、林を抜けると雪の斜面に出る。
騎士団が来た晩に、一人で登った道だった。
あの晩と違うのは、暗い林の上から、ときどき声が降ってくることだ。
「その沢は、右の平たい石を踏め。左は凍っている」
「はい」
「林を抜けたら、まっすぐ登るな。少し東へ回れ。雪が締まっている」
「はい」
「……返事ばかりだな」
「登るので、精一杯なんです」
上の方で、竜が鼻を鳴らす音がした。
笑ったのかもしれない。
あの晩は、竜に会えるかどうかも分からなかった。
話しかけて、言葉が届くかどうかも。
沢で足を滑らせて、父さんの杖にしがみついた。
雪の斜面で、何度も膝をついた。
今夜も、膝はつく。
けれど、怖くはなかった。
上で、待っている者がいる。
◇
岩棚は、星明かりで青白く光っていた。
竜は、岩棚の奥に身を伏せていた。
金色の目が、私を見て、細くなった。
「遅かったな」
「誰かさんが、昼に村で歌いすぎたせいで、片付けが長引いたんです」
「頼まれたから、歌ったのだ」
私は、竜の鼻先に、瓶を置いた。
栓を抜くと、白樺の森の匂いが、冷たい空気の中に立ちのぼった。
竜は、しばらく匂いを嗅いでいた。
それから、首を下ろして、瓶の口に舌の先をつけた。
一口だけ。
竜は、目を閉じた。
長いこと、そのまま動かなかった。
岩棚の雪の上を、風が一筋、さらさらと流れていった。
「……百年ぶりの味だ」
竜は、満足そうに目を細めた。
「守り人の村の女たちが、文句を言う私に石を温めさせて作った酒と、同じ味がする」
「よかった」
「杜松が、少し多い」
「……来年は、少し減らします」
竜の喉の奥で、ごろごろと低い音が鳴った。
笑っているのだと、今はもう分かる。
「残りは、どうするんですか」
瓶には、まだほとんどが残っている。
「取っておく。大岩の瓶も、全部だ」
「全部? 二十本以上ありますよ」
「一年に一口だ。二十年は飲める」
竜は、まじめな声でそう言った。
二十年ぶんの冬至を、もう数えているのだ。
「そういえば、トマが気にしていました。竜さまは、蜂蜜酒のほかに何を食べてるのかって」
「冬のあいだは、ほとんど食べん。眠っているのと同じだ。春になったら、山の奥で鹿を少し」
「村の羊は」
「守り人が、守るはずの村の羊を食べてどうする」
竜は、心外そうに鼻を鳴らした。
明日、トマに教えてやろう。
きっと、また「つまんない」と言うだろうけれど。
「今日、村の人たちが、約束を思い出しました」
私が言うと、竜は少し黙った。
「半分だ」
「半分?」
「冬至の蜂蜜酒は、戻った。だが、約束の相手は、人の王だ。王の都は、まだ何も思い出していない」
竜の目が、南の空へ向いた。
その向こうに、王都がある。
北の雪を、百年、誰からも知らされなかった都が。
「領主さまが、王都に書いてくれるそうです。北の竜は、守り人だって」
「そうか」
竜は、それきり何も言わなかった。
けれど、尾の先が、雪の上でゆっくりと一度だけ揺れた。
◇
私は、竜の前足のそばに腰を下ろした。
竜の体から、ほんのりと温かさが伝わってくる。
石を温めた息と、同じ温かさだった。
北の空に、星がびっしりと出ていた。
村から見上げるより、ずっと多い。
手を伸ばせば、届きそうなくらいに。
「ヴェルグ。今日の歌で、一つだけ歌わなかった星がありましたね」
竜は、すぐには答えなかった。
「数えていたのか」
「数えずにいられませんでした」
竜は、首をゆっくりと持ち上げた。
北の空の、ある一点に、鼻先を向ける。
「あの、冠のような七つの星の下だ。小さいのが、一つ」
私は、目を凝らした。
七つの星が、弓のように並んでいる。
その下に、言われなければ見落とすほどの、小さな星が一つ瞬いていた。
「四十年ほど前の冬だ」
竜が、低い声で言った。
「麓の村で、弔いの鐘が鳴った。一晩じゅう、鳴っていた。誰の鐘かは、私には分からなかった。吠え声しか持たない竜に、誰が死んだかを教えに来る者はいないからな」
私は、黙って聞いていた。
「その夜、あの場所に、新しい星が灯った。百年、北の空を見てきたが、新しい星が灯ったのは、あれが初めてだった」
「それで、名前を」
「付けた。私が覚えている者の名前を」
竜は、そこで言葉を切った。
「誰の名前ですか」
「それは、まだ教えん」
竜は、星から目を離さずに言った。
「いつか、教える。今夜ではない」
私は、それ以上聞かなかった。
百年、誰にも話せなかった竜が、自分から黙ると決めたことだ。
無理に開けていい扉ではない気がした。
あの小さな星の名前は、私の資料集のどこにもない。
台本の竜が呼べる星は、三百二十一。
最後の一つは、私の知らない四十年の中で、竜が自分で付けたものだ。
◇
風が止んで、岩棚がしんと静かになった。
このごろ竜は、私を「娘」ではなく名前で呼ぶ。
吹雪の晩からずっとだ。
最初は呼ばれるたびに胸が跳ねたのに、今はもう、それが当たり前になっている。
「リタ。一つ聞きたい」
「何ですか」
「お前が書いた物語は、ほかにもあるのか。削られて、しまわれたものが」
私は、雪の向こうの南の空を見た。
春になれば、南の神殿で聖女が目覚める。
本編が始まる。
そして、削られたのは竜のルートだけではない。
没になった王子の兄。
使われなかった聖女のもう一つの結末。
台詞を入れてもらえなかった登場人物は、この世界のどこかで、まだ口を開けたまま黙っている。
百年、誰にも答えてもらえなかった竜のように。
「……あります。たくさん」
「そうか」
竜は、ゆっくりと翼を広げた。
雪が舞い、星が揺れた。
「では、春になったら、話しかけに行こう。私の背に乗れば、どこへでも早い」
「私、高いところは平気ですけど、空はちょっと」
「書いた者の責任だろう」
竜は、百年ぶりの意地の悪い顔で笑った。
その顔も、私は書いていない。




