第22話 百年ぶりの冬祭り
冬祭りをやろう、と言い出したのは、ハンナおばあさんだった。
領主さまが帰った、その晩のことだ。
「祖母の話じゃがの。守り人の村では、冬至の日に祭りをしたそうじゃ。昼は村じゅうで歌うて食べて、日が暮れたら、子どもが蜂蜜酒を岩棚へ届ける。竜は、その日だけ村の外れまで下りてきて、歌を返してくれたと」
おばあさんは、暖炉の火を見ながら言った。
「わしは、その話を、作り話じゃと思うて育った。死ぬまでに、一度でいいから見てみたいもんじゃ」
村長が、帽子を握りしめて頷いた。
それで、決まった。
百年ぶりの冬祭りだった。
その晩、私は窓から山に向かって頼んだ。
「ヴェルグ。冬至の日に、村まで下りてきてくれませんか」
「……下りる気はない。今のところは、と言ったはずだ」
「その今のところを、冬至の日だけ、やめてください」
尾根の上で、竜が長い息を吐いた。
返事は、なかった。
◇
町はずれの倉が開けられたという報せは、四日後に届いた。
祭りの支度の最中だった。
領主さまの兵が、峠を越えて村長に手紙を届けに来たのだ。
村長は、広場で手紙を読み上げようとして、三度つかえた。
代わりに父さんが読んだ。
倉の中には、麦袋が天井まで積まれていた。
袋の口には、北の村々の焼き印が押してあった。
毛皮の束も、干し肉の樽も、去年の秋のものがそのまま残っていた。
代官は代官所を追われ、領主さまの城で裁かれる。
倉の麦は、春までに北の村々へ返される。
父さんが読み終えると、広場はしばらく静かだった。
それから、鍛冶屋のおじさんが、煤だらけの手で顔をこすった。
「麦が、返ってくるのか」
誰かが笑い出し、誰かが泣き出した。
その日の白樺亭の広間は、夜遅くまで灯りが消えなかった。
◇
冬至の朝、竜の見立ては「一日晴れ。風なし」だった。
白樺亭の厨房は、夜明け前から湯気でいっぱいだった。
大鍋に竜の煮込み。
蜂蜜の小さなパンを、天板に何枚も。
干し林檎を刻んで、生地に巻き込んで焼く。
母さんと二人で、朝から一度も座らなかった。
広場には、村じゅうの家から卓が運び出された。
鍛冶屋のおじさんは、鉄の燭台を十本も打ってきた。
吟遊詩人は、峠の茶屋から仲間を二人連れて戻ってきていた。
昼になると、村長が卓の上に立った。
帽子を胸に当てて、咳払いを三回した。
「ええ、本日は、その、百年ぶりの」
そこで、言葉が詰まった。
村長は、帽子を胸に当てたまま、しばらく山を見上げていた。
「……百年ぶりの、冬祭りじゃ。皆、食うてくれ」
それだけ言って、卓から下りた。
広場じゅうが笑って、拍手が起きた。
村長の挨拶が、こんなに短かったのは初めてだった。
竜の煮込みの大鍋は、昼過ぎには底が見えた。
蜂蜜のパンは、子どもたちが両手に一つずつ持って走り回っている。
母さんは、空になった鍋を抱えて、厨房と広場を何度も往復した。
昼過ぎ、広場の真ん中で、貯蔵庫から運び出した樽の蓋を開けた。
白樺の森の匂いが、広場に広がった。
村の人たちが、一人ずつ杯を受け取って、口をつける。
誰も、何も言わなかった。
ハンナおばあさんだけが、目を閉じて、小さく頷いた。
「祖母の話の、匂いじゃ」
私は、樽からいちばん最初に汲んだ一瓶を、厨房の棚に取っておいた。
今夜、岩棚へ持っていくぶんだ。
そのとき、トマが広場の端で叫んだ。
「竜さまが、来る!」
みんなが、山を見上げた。
尾根の上で、大きな影が翼を広げていた。
雪が舞い上がる。
影が、ゆっくりと斜面を滑り下りてくる。
炭焼き小屋の上を越え、大岩の上を越えて。
羽ばたきのたびに、広場の燭台の火が揺れた。
竜は、村はずれの雪原に下りた。
地面が、どすんと揺れた。
卓の上の杯が、かたかたと鳴る。
何人かが悲鳴を上げて、家の陰へ逃げ込んだ。
竜は、雪原に身を伏せたまま、動かなかった。
首だけを伸ばして、広場の方を見ている。
金色の目が、燭台の火を映していた。
「……下りてきてやった」
不機嫌そうな声だった。
「冬至の日だけだ」
私は、笑った。
笑いながら、少しだけ泣きそうになった。
占星院の予言は、この冬に竜が山を下りる、と告げた。
予言は、ひと月半遅れで、当たったことになる。
ただし、村は焼けなかった。
竜は、祭りに呼ばれて下りてきたのだ。
◇
最初に竜のそばへ行ったのは、やっぱりトマだった。
鉄の笛を握りしめて、雪原をざくざくと歩いていく。
鍛冶屋のおじさんが止めようとして、手を伸ばしたまま固まった。
トマは、竜の鼻先で立ち止まって、見上げた。
「竜さま。歌って」
竜は、しばらくトマを見下ろしていた。
「笛を、吹け。小さいの」
トマが、笛を口に当てた。
四拍、休み、三拍、休み。
細い音が、冬の空に上っていく。
竜が、歌いはじめた。
古竜語の歌だった。
言葉は、たぶん村の誰にも分からない。
けれど、四拍と三拍の区切りが、トマの笛とぴったり重なっていた。
低い声が雪原を渡り、広場を渡り、村じゅうの屋根を震わせた。
私には、言葉が分かった。
資料集の語彙表に、私が書いた言葉だったから。
北の星の名前を、一つずつ数えていく歌だった。
守り人が、子どもに星の名前を教えるための歌。
一つ、また一つ。
竜の声が、星の名前を呼んでいく。
吟遊詩人が竪琴で合わせようとして、途中で手を止めた。
合わせる必要はないと、分かったのだろう。
ハンナおばあさんは、卓に手をついて、声を殺して泣いていた。
母さんが、その背中をさすっていた。
父さんは、腕を組んで、黙って竜を見ていた。
その目が、少しだけ赤かった。
歌は、日が傾くまで続いた。
私は、途中から、星の数を指で数えていた。
数えずにはいられなかった。
台本の竜は、北の星を三百二十一個、名前で呼べることになっている。
本当は、三百二十二個だと、岩棚で竜に直された。
三百二十一番目の名前で、歌は終わった。
竜は、最後の一つを歌わなかった。
四十年ほど前に、自分で名前を付けた星。
その名前は、岩棚でも教えてもらえなかった。
竜は、歌い終えると翼を広げた。
雪原の雪が、一斉に舞い上がる。
大きな影が、夕暮れの空を、山へ帰っていった。
尾根を越える前に、一度だけ、声が降ってきた。
「今夜、岩棚で待っている。リタ」
広場じゅうが、私を見た。
母さんが、前掛けで手を拭いて、ため息をついた。
「冬至の晩だけだよ。それから、父さんの杖を持っていきな」
父さんが、黙って、戸口に立てかけてあった樫の杖を差し出した。




