第21話 代官の失脚
領主さまが来たのは、雪の晴れた日だった。
竜の見立てでは、一日晴れ。
入口の板にそう書いた昼前、峠の方から馬の列が下りてきた。
先頭は、金色の紋章の黒い馬車。
その後ろに、もう一台、紋章のない灰色の馬車。
さらに後ろに、槍を立てた兵が十騎ほど続いている。
黒い馬車から、代官が先に下りた。
それから、灰色の馬車の扉の前に立って、恭しく頭を下げた。
灰色の馬車から下りてきたのは、背の高い女の人だった。
四十を少し過ぎたくらいだろうか。
飾りのない灰色の外套に、黒い革の手袋。
髪をきっちりと後ろでまとめていて、目は、冬の空のように澄んでいた。
「ローデン伯爵さまでいらっしゃいます」
代官が、広場じゅうに聞こえる声で言った。
村長が、雪の上に膝をつきそうになった。
領主さまは、それを手で制した。
「立ってくれ。私は、竜を見に来ただけだ」
低い、よく通る声だった。
◇
大岩の前には、村じゅうの人が集まっていた。
大岩の上の瓶は、二十本を超えている。
代官はそれを見ても、もう舌打ちをしなかった。
領主さまの前で、機嫌のいい顔を崩すわけにはいかないのだろう。
「領主さま。これが、北の竜でございます」
代官は、尾根に向かって両手を広げた。
「百年、言葉を奪われていた竜を、このたび北の村が取り戻しました。代官所としては、この竜を領地の宝として守り、王都にも名を上げたいと考えております。竜も、それを喜んでおりまして」
代官は、私をちらりと見た。
口元だけで笑っている。
「娘さん。竜に、ご挨拶をさせなさい」
私は、代官を見なかった。
尾根を見上げた。
「ヴェルグ。領主さまです」
尾根の上で、雪が崩れた。
大きな頭が、ゆっくりと斜面を下りてくる。
兵たちが、一斉に槍を構えかけた。
「下ろせ」
領主さまが、短く言った。
槍が下りた。
金色の目が、大岩の上で止まった。
竜は、領主さまを見下ろした。
それから、代官を見た。
「頭は、下げん」
広場が、しんとした。
代官の笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
「だが、領主に話がある」
「りょ、領主さま。お聞きになるには及びません」
代官が、慌てて前に出た。
「この獣は、ときどき妙なことを申します。山の上から峠の向こうの荷馬車を数えたなどと、根も葉もない作り話を。どうか、獣の戯言とお聞き流しを」
「聞こう」
領主さまは、代官の方を見もしなかった。
竜は、話した。
峠を越える北の村々の荷馬車が、毎年十四台であること。
南の町から南へ出ていく列が、十二年前から少しずつ減って、去年は七台だったこと。
残りの荷馬車が、町はずれの倉へ入っていくこと。
領主さまは、最後まで黙って聞いていた。
表情は、少しも変わらなかった。
「代官」
「は」
「この十二年、代官所からは毎年、北の村々は凶作で難儀している、年貢を減じてほしい、と届いている。私は、毎年それを認めてきた」
領主さまの声は、静かだった。
「竜の言うことが本当なら、北の村々は凶作ではなかったことになる」
「ですから、竜の作り話でございます」
代官の声が、少し高くなった。
「北の村が凶作でなかったという証が、どこにございます。獣の目で数えたものなど、何の証にもなりません」
私は、前に出た。
「証なら、あります」
腕に抱えていた包みを解く。
白樺亭の帳簿の、十二年分の秋の頁を写した紙。
父さんが、横から古い帳簿の実物を差し出した。
村長が、谷の村と峠の手前の村から集めてきた、受け取りの写しの束を広げる。
「毎年、秋に代官所のお役人が、うちの宿に泊まって年貢を受け取っていきました。その受け取りが、ここに全部あります。お役人の署名と、代官所の判もです」
領主さまが、手袋を脱いで、帳簿を受け取った。
赤い封蝋の判を、指でなぞる。
「北の村々の受け取りを、年ごとに並べた表です。どの年も、荷馬車は十四台ぶん。この十二年、年貢は一度も減っていません」
領主さまは、帳簿と表と、受け取りの写しを、一枚ずつ見比べていった。
長い時間だった。
雪の上で、誰も身じろぎしなかった。
「……代官所の判だな」
領主さまが、顔を上げずに言った。
「判は、盗まれたのでございます」
代官が、早口で言った。
額に、冬だというのに汗が浮いている。
「宿屋の帳簿など、いくらでも書き換えられます。その娘は、竜にたぶらかされているのです。竜が本当に峠の向こうまで見えるというなら、言ってみるがいい」
代官は、竜を指さした。
銀の指輪が、日の光にぎらりと光った。
「今、私の倉に何が入っているか。言えるものなら、言ってみろ」
竜が、ゆっくりと首を傾げた。
「お前の倉、とは」
低い声だった。
「町はずれの、川沿いの、赤い屋根の倉のことか」
代官の口が、開いたまま止まった。
広場じゅうの目が、代官に向いた。
誰も、何も言わなかった。
言わなくても、みんな分かっていた。
町はずれの倉の話をしたのは、竜だけだ。
代官は、その倉を、自分で「私の倉」と呼んだのだ。
「代官」
領主さまが、帳簿を閉じた。
「今、お前の倉、と言ったな」
「い、いえ、それは、言葉の綾で」
「その倉は、私の兵に開けさせる」
領主さまは、兵の一人に目をやった。
兵が二人、代官の両脇に立った。
「倉が空なら、私が竜と北の村に詫びよう。それまで、お前は私の馬車に乗っていろ」
代官は、何か言おうとした。
けれど、言葉は出てこなかった。
銀の指輪の手が、外套の裾をつかんで、細かく震えていた。
兵に両脇を挟まれて、代官は雪道を下りていった。
来たときと同じ道を。
誰も、止めなかった。
◇
「竜よ」
領主さまが、尾根を見上げた。
「この領地のために、望むことはあるか」
竜は、少し考えるように目を細めた。
「何も。人が、約束を思い出せばいい」
「約束」
「竜は北の雪と嵐を人に告げ、人は守り人の村と、冬至の蜂蜜酒を守る。人の王と交わした約束だ。人の方は、とうに忘れたがな」
領主さまは、しばらく黙っていた。
それから、大岩の上の二十あまりの瓶を見た。
「忘れていたのは、私も同じだ」
領主さまは、手袋をはめ直した。
「柵も、見物料も、竜の税も無しだ。表の板は、そのまま立てておけ。王都には、私から書く。北の竜は、兵器ではなく、守り人だと」
それから、私の方を向いた。
「この表は、お前が作ったのか」
「はい」
「宿屋の娘が」
「宿屋の娘です」
領主さまは、私をじっと見た。
澄んだ目の奥で、何かを測っているようだった。
「王都にも、これほど分かりやすい表を作れる者は、そう多くない」
それだけ言って、領主さまは背を向けた。
広場の端で、吟遊詩人が竪琴を鳴らしはじめた。
新しい歌になるのだろう。
今度の歌の題は、たぶん、竜は嘘をつかない、だ。




