第20話 帳簿と荷馬車
夜のうちに降り出した雪は、竜の見立てどおり、次の日の昼まで峠を閉ざした。
代官は、二階の奥の部屋から一歩も出なかった。
峠が開くのを待って、南の町へ帰るつもりらしい。
従者が、朝と昼に二度、食事を取りに下りてきた。
母さんは、黙って煮込みをよそった。
竜の煮込み、とは言わなかった。
その間に、私たちは帳場の棚を空にした。
白樺亭の帳簿は、全部で二十冊あまりある。
いちばん新しいのは、父さんが毎晩つけている一冊。
いちばん古いのは、背表紙がひび割れて、紐でくくってある一冊だった。
「秋の頁を開いてくれ。年貢の受け取りは、毎年、刈り入れのあとの月に書いてある」
父さんが言った。
村長と母さんと私とで、一冊ずつ手分けして頁をめくる。
古い紙の匂いが、帳場に広がった。
受け取りは、すぐに見つかった。
『年貢 麦二十俵、毛皮十束、干し肉二樽。荷馬車二台にて。確かに受け取った』
その下に、役人の名前の署名がある。
さらにその下に、赤い封蝋の判が押してあった。
南の町の、代官所の判だ。
「これだ」
父さんが、太い指で判をなぞった。
「毎年、受け取りに来る役人が、ここに泊まる。泊まった晩に、この帳簿に書いて、判を押していく。じいさんの代からの決まりだ」
「なんで、そんな決まりが」
私が聞くと、父さんは少し考えてから言った。
「昔、受け取ったの受け取らないので、揉めたことがあったらしい。それから、宿の帳簿に書いてもらうことにした。宿の帳簿なら、誰の味方でもない、ってな」
私は、頁をめくった。
去年の秋。
一昨年の秋。
その前の秋。
『麦二十俵、毛皮十束、干し肉二樽。荷馬車二台』
『麦二十俵、毛皮十束、干し肉二樽。荷馬車二台』
同じ字が、同じ数で、毎年並んでいる。
夏の冷えた凶作の年も、麦は二十俵のままだった。
村じゅうで切り詰めて納めた年だと、村長が言った。
「十二年前は」
村長が、別の帳簿を開いた。
手が震えて、なかなか頁が繰れない。
「十二年前の秋も、同じじゃ。麦二十俵、荷馬車二台。判の名前が、ここから変わっとる。代官さまが替わった年じゃ」
一冊ずつ、頁を開いて卓に並べていく。
十二年分の秋が、帳場の卓の上に並んだ。
赤い判が、十二個。
どの頁も、この村は年貢を減らしてもらってなどいなかった。
「村の分だけじゃ、足りないかもしれない」
私は言った。
「竜が数えたのは、北の村々の荷馬車ぜんぶです。東の谷の村も、峠の手前の村も、きっと同じように受け取りを持ってるはず」
村長が、顔を上げた。
しばらく私を見てから、帽子をかぶり直した。
「峠が開いたら、若いのを走らせる。谷の村の村長とは、古い付き合いじゃ。受け取りの写しくらい、どこの村でも取ってある」
「お願いします」
村長は、ふうっと息をついた。
「宿屋の娘に、お願いされる日が来るとはのう」
◇
その日の午後、峠が開くと、代官の馬車はすぐに南へ帰っていった。
窓から見送る人は、誰もいなかった。
馬車が峠の向こうに消えたあと、私は厨房の窓を開けた。
「ヴェルグ。受け取りが、ありました。十二年分。どの年も、荷馬車は二台です」
尾根の上で、大きな影が身じろぎした。
「そうか」
「赤い判が、十二個。あの人の代官所の判です。あの人が、自分の判で、村が年貢を全部納めたって書いてるんです」
竜は、しばらく黙っていた。
「人の字は、百年たっても残るのだな」
低い声だった。
「私の声は、百年、どこにも残らなかった。吠えた先から、風に散った」
私は、窓枠を握った。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「残します」
気がついたら、そう言っていた。
「入口の板にも、帳簿にも。あなたが毎朝言ったことを、全部書いて残します。百年たっても、誰かが読めるように」
竜は、何も言わなかった。
ただ、尾根の上で、長い息を吐く音がした。
白い湯気が、夕暮れの斜面をゆっくりと流れていった。
その晩から、私は板に書いた見立てを、帳場の新しい帳面にも書き写すことにした。
『竜の見立て』と、表紙に書いた。
母さんが、それを見て言った。
「字が、ちょっとはまっすぐになったね」
夜になって、私は一人で帳場に残った。
十二年分の頁を、紙に書き写していく。
年ごとに、村の受け取りの数と、竜が数えた荷馬車の数を並べた表だ。
前世で、何度も作った表だった。
登場人物の年表、イベントの発生条件、分岐の一覧。
企画会議で、偉い人に一目で分かってもらうための表。
偉い人に一目で分かってもらう。
今度の偉い人は、領主さまだ。
書き写しているうちに、いちばん古い帳簿に手が伸びた。
紐をほどいて、最初の頁を開く。
理由はなかった。
ただ、この宿の最初の一行を見てみたかった。
『王国暦三百四十一年、秋。白樺亭、はじめての客。南の町の塩売り、一晩』
太くて、角ばった字だった。
その下に、何人かの客の名前と、泊まった晩の数が続いている。
頁のいちばん下に、別の字で、名前が一つだけ書いてあった。
『エルナ』
細くて、一画ずつ確かめるように書いた字だった。
少し震えている。
字を習ったばかりの人が、自分の名前を初めて書いてみたような。
「父さん」
私は、帳場の戸口から、広間の父さんを呼んだ。
父さんは、暖炉の火の始末をしていた。
「いちばん古い帳簿に、名前が書いてある。エルナって」
父さんは、火掻き棒を置いて、少し考えた。
「最初の帳簿は、ひいじいさんがつけてたと聞いてる。字の太いのが、それだ」
「じゃあ、この細い字は」
「さあな」
父さんは、首を傾げた。
「俺が生まれたころには、もう誰もいなかったからな。昔のことは、ハンナばあさんの方が詳しいだろう」
それきり、父さんは火の始末に戻った。
私は、細い字をもう一度見た。
一画ずつ、確かめるように。
誰かが、この宿の最初の頁に、自分の名前を残していった。
けれど、そのときの私の頭は、十二年分の数字でいっぱいだった。
私は、帳簿を閉じて、紐を結び直した。
その名前のことを、私はすぐに忘れてしまった。
思い出すのは、ずっと後のことになる。




