第19話 竜は嘘をつかない
次の朝も、夜明けとともに尾根から声が降ってきた。
「今日は、曇り。夜から雪。峠は、明日の昼まで閉ざされる」
二階の奥の部屋で、何かが床に落ちる音がした。
代官が、声で起こされたのだ。
しばらくして、苛立った足音が階段を下りてきた。
「毎朝、これですかな」
「毎朝です」
私が答えると、代官は細い口ひげを指でなでつけて、鼻を鳴らした。
◇
大岩までの雪道を、私が先に立って歩いた。
後ろに代官と、従者が二人。
村長と父さん。
少し離れて、村の人たちがぞろぞろとついてくる。
吟遊詩人も、竪琴を背負って混じっていた。
ハンナおばあさんまで、鍛冶屋のおじさんの腕につかまって歩いている。
大岩の上には、蜂蜜酒の瓶が十一本並んでいた。
代官はそれを見て、小さく舌打ちをした。
「酒を供えているのですか。獣に」
「誰が置いたのかは、誰も言いません」
私は、尾根を見上げた。
「ヴェルグ。お連れしました」
尾根の上で、雪が崩れた。
大きな頭が、岩の陰から現れる。
首が伸び、斜面を滑るように、ゆっくりと下りてくる。
金色の目が、大岩のすぐ上で止まった。
従者の一人が、尻もちをついた。
もう一人は、腰の剣に手をかけたまま、動けなくなっている。
代官は、一歩も退かなかった。
顔は真っ白だったけれど、口元の薄い笑いは消えていなかった。
それだけは、たいしたものだと思った。
「竜よ。南の町の代官所の、ヘルマンである」
代官の声は、少しだけ上ずっていた。
「この領地の主に代わって申し伝える。九日後、領主さまがお見えになる。その日、領主さまの前で、頭を下げてもらいたい。そうすれば、代官所はお前を守ってやろう。柵を巡らせ、番を置き、王都にも名を上げてやる」
竜は、黙って代官を見下ろしていた。
長い間だった。
雪が一ひら、二ひら、竜の鼻先をかすめて落ちていく。
「代官」
低い声が、大岩の前に響いた。
「十二年前の秋から、お前の馬車を見ている」
代官の口元が、ほんのわずかに動いた。
「北の村々の年貢は、毎年秋に、荷馬車で峠を越えて南の町へ下りる。私は百年、それを数えてきた。他にすることもなかったからな」
竜は、ゆっくりと言葉を続けた。
「峠を越える荷馬車は、毎年十四台だ。お前が来る前も、来てからも、変わらん。去年も十四台だった」
人の輪の中で、誰かが息を呑む音がした。
「南の町から、さらに南へ出ていく列も、十二年前までは十四台だった」
竜の目が、細くなった。
「お前が来た年から、十二台。次の年に十一台。それから十台、九台。去年は、七台だ」
しん、と雪の音だけがした。
「残りの荷馬車は、南へは出ていかない。町はずれの、川沿いの赤い屋根の倉へ入っていく。毎年、冬の初めにな」
村長が、帽子を取り落とした。
父さんは、腕を組んだまま、じっと竜を見上げている。
代官は、しばらく黙っていた。
それから、声を立てて笑った。
「これは、これは。竜の目で数えた、と」
代官は、銀の指輪の指で、ゆっくりと手を叩いた。
「結構。実に結構な作り話だ。で、それを誰が信じます?」
「作り話ではない」
「竜が言うから、本当だと?」
代官は、村の人たちを振り返った。
両手を広げて、芝居がかった声を出す。
「皆さん。山の獣が、峠の向こうの荷馬車を数えていたそうですよ。百年もね。領主さまの前で、そう申し上げてごらんなさい。北の村は、竜に化かされて正気を失った、と笑われるだけだ」
何人かの村人が、顔を見合わせた。
この村は、まだ半分ずつなのだ。
竜の声を聞いてから、まだ半月しかたっていない。
そのとき、人の輪の後ろから、細い声がした。
「竜は、嘘をつかん」
ハンナおばあさんだった。
鍛冶屋のおじさんの腕から手を離して、杖一本で立っている。
「わしの祖母が、そう言うとった。竜は、預かったものを必ず返す。竜は、嘘をつかん」
「年寄りの昔話ですな」
代官は、おばあさんを見もしなかった。
「竜が嘘をつかぬと、誰が証を立てるのです。竜の言葉など、獣の吠え声と同じ。証にはなりませんよ」
代官は、外套の裾を払った。
「九日後、領主さまの前で、竜が何を言おうと構いません。私が一言、獣の戯言と申し上げれば、それで済む話だ」
それから、竜を見上げて、薄く笑った。
「頭を下げる練習を、しておきなさい」
代官は、従者を引き起こして、雪道を下りていった。
誰も、止めなかった。
◇
人の輪がほどけて、大岩の前には、私と父さんと村長が残った。
村長は、雪の上に落ちた帽子を拾おうともせず、指を折って何か数えていた。
「うちの村からは、毎年、荷馬車が二台。東の谷の村から三台。峠の手前の村々から、残りが」
「十四台か」
父さんが言った。
「十四台じゃ。わしが若いころから、ずっと十四台じゃった」
村長は、ようやく帽子を拾って、雪を払った。
その手が、震えていた。
「なのに、代官所からは、毎年、北は凶作で難儀しとると言われとったんか。わしらの知らんところで」
竜は、まだ首を下ろしたままだった。
「……すまん」
低い声が言った。
「私の言葉は、まだ人の言葉として届かんようだ」
「違います」
私は、首を振った。
「あなたは、嘘をついていません。数も、倉も、全部本当だと思います」
「なぜ分かる」
「あの人、笑う前に、一度だけ黙ったから」
台詞を書く仕事を、前世で何年もしてきた。
人が図星を指されたとき、どこで間が空くかは知っている。
あの代官は、竜が倉の話をした瞬間、ほんのわずかに言葉を探した。
「でも、あの人の言うことも、半分は当たっています」
竜の目が、私を見た。
「竜の言葉だけでは、人は信じない。百年、言葉を奪われていたあなたの声を、人はまだ聞き慣れていないから」
竜は、黙っていた。
私は、父さんを見た。
父さんは、私が何を言うか、もう分かっている顔をしていた。
「だったら、人の字で書いたものを、あなたの言葉の隣に並べればいい」
竜は嘘をつかない。
でも、人は竜の言葉だけでは信じない。
だから、人の手で書かれた証が要る。
毎年、秋に役人が判を押していった、白樺亭の帳簿が。




