第2話 白樺亭の娘
「リタ姉ちゃん、薪、こっちに置けばいい?」
「うん。濡れないように、軒の下にね」
トマが両腕いっぱいに薪を抱えて、裏庭をよたよた歩いていく。
雪はまだ降り続いていて、トマの茶色い頭がだんだん白くなる。
トマは八歳。
村の鍛冶屋の末っ子で、宿が忙しい日には手伝いに来てくれる。
お駄賃は、厨房で焼いた蜂蜜の小さなパンだ。
「初雪だね」
「そうだね」
「おれ、雪、好き。鉄みたいな匂いがするから」
鍛冶屋の子らしいことを言って、トマは得意そうに鼻をこすった。
私は笑って、トマの頭の雪を払ってやる。
この子の名前も、私は書いていない。
この村の人は、ほとんど全員そうだ。
ゲームの中のハルデ村には、名前のある人が一人もいなかった。
焼けるための村だったからだ。
◇
白樺亭は、ハルデ村でたった一軒の宿屋だ。
広場に面した二階建てで、一階に広間と厨房、二階に客室が六つある。
入り口には、白樺の板に木の葉の焼き印を押した看板が下がっている。
曾祖母がこの宿を開いたときからある、古い看板だそうだ。
冬のあいだの客は、南の町から来る行商人と、山向こうの砦へ向かう兵士くらい。
夜になると、村の男たちが広間の暖炉の前に集まって、薄い麦酒を飲む。
宿屋というより、村の居間みたいな場所だ。
父さんは、この宿の主人だ。
口数が少なくて、一日に十言もしゃべらない日がある。
その代わり、よく人を見ている。
客の顔色を見て、黙って温かいスープを一杯多く出すような人だ。
母さんは、この宿のおかみだ。
口数が多くて、心配性で、一日に百回は私の名前を呼ぶ。
怒るときも笑うときも声が大きいので、村じゅうに筒抜けだ。
夕方、隣の家のハンナおばあさんが、いつものように勝手口から入ってきた。
雪を払いながら、厨房の椅子に腰を下ろす。
「今年は早いのう。山がもう真っ白じゃ」
「おばあさん、スープ飲む?」
「もらおうかの。リタは、ええ子じゃ」
おばあさんは村でいちばんの年寄りで、竜の昔話をたくさん知っている。
けれど、村の人はあまり本気で聞かない。
竜が話をしたなんて、子どもを寝かしつけるための作り話だと思っているからだ。
私は知っている。
あれは作り話ではない。
少なくとも、私が書いた設定の中では。
おばあさんはスープをすすりながら、窓の外の山に目をやった。
「リタは、今夜も山を見るのかい」
「うん。たぶん」
「そうかい。あんたのひいばあさんも、よう見とったよ。この窓から、毎晩な」
「ひいおばあちゃんが?」
「わしがまだ娘っこのころじゃ。何を見とるのか聞いたら、笑うて、内緒じゃと言うとった」
おばあさんは懐かしそうに目を細めて、それ以上は話さなかった。
曾祖母は、私が生まれるずっと前に亡くなっている。
顔も知らない。
同じ窓から、同じ山を見ていた人がいた。
そんなこと、十年も見ていたのに、今日まで知らなかった。
◇
夜になって、広間の客が帰ると、私は厨房の窓辺に座った。
雪は止んでいた。
雲の切れ間から星がのぞいて、北の山が白く浮かび上がっている。
記憶が戻った六歳の冬から、毎晩こうしている。
母さんは最初、怖い夢を見るのかと心配した。
父さんは何も言わずに、窓辺に古い毛布を一枚置いてくれた。
その毛布は、今も私の膝の上にある。
山の上から、低い音が降ってきた。
竜の吠え声だ。
村の人たちは、もう慣れっこで気にもしない。
冬の夜、竜はときどきこうして吠える。
百年前から、ずっとそうだ。
私は、目を閉じて耳を澄ませる。
古竜語には、決まった区切りがある。
四拍、休み、三拍、休み。
私が資料集のために作った、竜の言葉の文法だ。
けれど、この窓まで届く吠え声は、山にこだまして崩れている。
区切りが重なって、ただの長い唸りになる。
十年、毎晩数えようとして、一度も数えきれたことがない。
近くで聞けば、きっと分かる。
そう思いながら、私は一度も山に登らなかった。
登れなかった、と言う方が正しい。
六歳の子どもが雪の山に入れば、それだけで死ぬ。
大きくなってからは、別のことが怖くなった。
隠しルートに入れるのは、本編をすべて終えたヒロインだけだ。
南の神殿で目覚める聖女で、王子や騎士たちと絆を結んで、世界を救った人。
竜は、その人の言葉だから耳を傾けた。
私がそう書いた。
宿屋の娘が岩棚に登って、台詞を言ったらどうなるだろう。
竜は聞いてくれるだろうか。
それとも、ただの吠え声と一緒に、私を雪の上に払い落とすだろうか。
だから、別の道を考えた。
回想の中で、竜は自分から山を下りたのではない。
騎士団が先に巣を攻めた。
眠っていた竜は、槍で起こされて怒り、麓の村を焼いた。
だったら、騎士団を止めればいい。
騎士団長のことなら、竜の次によく知っている。
好きな食べ物も、嫌いな言葉も、誰にも話していない父親のことも。
十年、何を言えば彼が槍を下ろすか、考えてきた。
台詞を考えるのは、前世からの仕事だ。
山の上で、もう一度、竜が吠えた。
短い吠え声だった。
誰かに声をかけるような。
「おやすみ」
小さな声で、私は窓に向かって言った。
誰にも聞こえないくらいの声で。
十年、毎晩そうしている。
◇
翌朝は、よく晴れた。
村じゅうの屋根が白くて、広場の雪に朝日が跳ね返って目が痛い。
私は寝不足の目をこすりながら、宿の前の雪かきをした。
母さんは、二階の客室を全部開けて、寝台に乾いた藁を詰め直している。
父さんは裏の馬小屋の扉を、黙って直している。
昨日の噂を、二人とも半分は信じているらしい。
昼が近づくにつれて、私は何度も南の街道を振り返った。
雪をかぶった二本の杉の向こうに、道が白く延びている。
まだ、何も見えない。
回想の一行は、私が書いた。
けれど、書いたことが本当に起きるところを、この目で見たことは一度もない。
もしかしたら、来ないかもしれない。
私が十年、何か思い違いをしていただけかもしれない。
そう思いかけたとき、広場の向こうから、トマが雪を蹴立てて走ってきた。
顔が真っ赤だ。
口から白い息が、煙みたいに上がっている。
「リタ姉ちゃん! 来た!」
「……何が」
「騎士さま! いっぱい! 街道に、馬がずうっと並んでる!」
私は、雪かきの板を握りしめた。
遠くから、蹄の音が聞こえてくる。
雪を踏む、重い音。
一つや二つではない。
南の街道の、二本杉の向こうに、銀色の光がちらりと見えた。




