第1話 北の山には、竜がいる
北の山に、竜がいる。
ハルデ村の子どもは、歩けるようになる前にそれを教わる。
山の上の黒い岩棚に、家より大きな竜が眠っている。
ときどき目を覚まして吠えるけれど、何を言っているのかは誰にも分からない。
百年前から、ずっとそうだ。
だから山に近づいてはいけない。
竜は言葉を持たない。
言葉を持たないものとは、分かり合えない。
私は宿屋の厨房で芋の皮をむきながら、窓の向こうの山を見ている。
山頂には、もう雪がかかっている。
今年の冬は、早い。
「リタ、手が止まってるよ」
「ごめん、母さん」
母さんは大鍋をかき回しながら、ため息をつく。
私はあわてて、次の芋を手に取る。
私は、リタ。
十六歳。
ハルデ村の宿屋『白樺亭』の一人娘だ。
それから、前世ではゲーム会社でシナリオを書いていた。
六歳の冬に高い熱を出して、三日三晩うなされたあと、全部思い出した。
蛍光灯の白い光。
締め切り前の徹夜と、冷めたコーヒー。
画面いっぱいに並んだ、自分の書いた台詞。
そして、自分が最後に書いていた作品の名前。
乙女ゲーム『白銀の誓約』。
今、私が生きているのは、その世界だ。
◇
最初は、熱のせいで見た夢だと思った。
六歳の子どもが、知らない国の会社の話を覚えているはずがない。
けれど、熱が下がってから父さんに地図を見せてもらって、私は寝台の上で震えた。
王都の位置も、川の名前も、北の山脈の形も、私が資料集に書いたとおりだった。
王都には攻略対象の王子がいて、騎士団には若い騎士がいて、南の神殿では聖女が目覚めるのを待っている。
そして北の山には、竜がいる。
熱が下がった日の夜、私は父さんに一つだけ聞いた。
「父さん。北の竜って、名前はあるの?」
「名前?」
父さんは少し考えてから、首を振った。
「聞いたことがないな。竜は竜だ。誰も呼んだことがないんだろう」
この村の誰も、竜の名前を知らない。
百年、誰も呼んでいない。
あの竜のことを、私は誰よりもよく知っている。
隠し攻略対象、邪竜ヴェルグ。
本編をすべて終えた人だけが入れる、隠しルートの相手役だった。
台詞は、全部で八万字。
一行残らず、私が書いた。
そして、発売の二か月前に、ルートごと削られた。
「予算とスケジュールの都合で、今回は見送りで」
会議室でそう言われた日のことを、今でも覚えている。
窓のない部屋で、ディレクターは私と目を合わせなかった。
竜の立ち絵も、背景も、もう完成していた。
削られたのは、台詞のデータだけだった。
竜が雪の岩棚で目を開ける最初の場面。
村の子どもに、雪崩の見分け方を教える場面。
最後に、百年分の問いを一つだけ口にする場面。
全部、もう書き終えていた。
開発の仲間うちでは、冗談半分に「台詞を実装し忘れた竜」と呼ばれていた。
忘れたのではない。
入れる時間を、もらえなかったのだ。
だから製品版の竜は、北の山で吠えるだけの敵になった。
何か言いたそうに口を開いて、でも言葉は一行も出ない。
画面の下の台詞欄は、空のままだった。
発売日のことを、私は覚えていない。
最後の記憶は、会社の床の冷たさだ。
たぶん、私はそこで死んだのだと思う。
◇
「リタ。芋、あと何個?」
「三つ」
「じゃあ、それが終わったら薪を運んで。今夜は冷えるよ」
「お客さん、来るの?」
「さあねえ。昨日の粉屋さんの話じゃ、王都の騎士さまが街道を北へ上ってるんだって。砦の見回りだろうけど、うちに泊まるなら部屋を温めとかなきゃ」
「……騎士さまが」
「なんだい、その顔。騎士さまが怖いのかい」
「ううん。寒そうだなと思って」
「そりゃ寒いさ。鎧なんて、冬はただの鉄の箱だよ」
母さんは笑って、勝手口から裏庭へ出ていく。
厨房に、私一人が残る。
私は、また窓を見る。
十年前から、毎晩こうして山を見ている。
竜が山を下りてこないか、確かめるためだ。
村の人には、山の好きな変わった娘だと思われている。
製品版の竜は、本編には一度しか出てこない。
騎士団長の、過去の回想の中だ。
北の山で眠っていた竜が、村を一つ焼いて、騎士団に討たれる。
騎士団長はその冬、村を救えなかったことを悔やみ続ける。
攻略対象の悲しい過去を作るための、それだけの役だ。
回想の台詞も、私が書いた。
背景の発注書も、私が書いた。
雪の中の焼け跡。
崩れた石垣と、黒く焦げた柱。
手前に、焼け落ちた宿屋の看板を一枚。
白樺の板に、木の葉の焼き印。
絵を描く人に、なるべく寂しく、と頼んだ。
上がってきた一枚絵を見て、よくできていると思った。
悲しい過去の場面として、ちょうどいいと思った。
あの看板は今、この宿の入り口に下がっている。
だから、焼かれる村の名前も知っている。
ハルデ村。
この村だ。
最初の一年は、毎日泣いた。
母さんは、熱の後遺症で気持ちが弱っているのだと心配して、甘い粥ばかり作ってくれた。
本当のことは、言えなかった。
六歳の娘が「この村は、いつか竜に焼かれる。私がそう書いたから」と言ったら、どうなるだろう。
熱で頭がおかしくなったと思われる。
それで終わりだ。
だから私は、黙って調べた。
村の古い地図。
騎士団の噂。
王都から来る行商人の話。
十年かけて分かったのは、私が書いたことが、ほとんど全部この世界で本当だということだった。
外れていたのは、宿屋の娘の名前くらいだ。
宿屋に娘がいるなんて、私は書いていない。
いつ焼かれるのかも、知っている。
資料集の年表に、私が自分で書き込んだからだ。
王国暦四百十二年、冬。
北の村、焼失。
今年が、その四百十二年だ。
毎年、秋になると、南の町から来る行商人が新しい暦を置いていく。
薄い紙を糸で綴じただけの、一枚めくると一月ぶん進む暦だ。
母さんはそれを厨房の柱に掛けて、毎朝一枚ずつめくる。
その表紙を、私は十年、誰よりも先に見てきた。
四百三年。
四百七年。
四百十年。
去年の秋、表紙に「四百十二」と刷られた暦を受け取った夜は、一睡もできなかった。
その暦が、今、柱に掛かっている。
残りは、もう何枚もない。
逃げることも、考えた。
十二の春に一度だけ、父さんに聞いたことがある。
南の町で暮らしてみたくはないか、と。
父さんは黙って首を振って、宿の看板を見上げた。
この宿は、曾祖母の代からここにある。
父さんと母さんは、ここを離れない。
それに、私たちが逃げても、村は残る。
トマも、ハンナおばあさんも、村長さんも、粉屋さんも。
名前を知っている人たちが、焼け跡の一枚絵の中に残る。
だから私は、逃げなかった。
私は芋をむく手を止めないように、気をつける。
母さんが戻ってきたとき、また手が止まっていたら叱られる。
怖い顔をしていたら、何があったのかと聞かれる。
聞かれても、答えられない。
あと一つだけ、知っていることがある。
回想の最初の一行だ。
画面が暗くなって、雪の降る音のあとに、こう出る。
『その冬、初雪の翌日に、騎士団は北の村へ着いた』
最後の芋をむき終えて、私は顔を上げた。
窓の外に、白いものが落ちてくる。
山頂ではなく、厨房の窓のすぐ前を。
一つ、二つ。
数えきれなくなるまで、すぐだった。
裏庭から、母さんの声がした。
「リタ、雪だよ。今年は早いねえ」
私は包丁を置く。
指先が、冷たい。
ハルデ村に、初雪が降った。
騎士団が来るのは、明日だ。




