第17話 行商人の噂
三人の客は、南の町の毛皮商と、その息子と、雇われの荷運びだった。
「オットーの爺さんが、酒場で毎晩しゃべってるんだよ。吹雪の窪地で、竜に助けられたってな」
毛皮商は、広間の暖炉の前で、温めた葡萄酒を一息に飲んだ。
赤ら顔の、声の大きな男だった。
「最初は誰も信じなかった。爺さん、とうとう雪で頭をやられたかってね。けど、あの爺さんは、塩の目方だけは一度もごまかしたことがない。だから、確かめに来た」
「それで、わざわざ峠を」
「峠を越えるのは、どっちみち仕事だからね。北の村の毛皮は、冬に買いつけるのがいちばんいい」
毛皮商は、そこで声をひそめた。
「で、娘さん。竜ってのは、本当にしゃべるのかい」
「明日の朝になれば、分かります」
私は、それだけ答えた。
次の朝、夜明けとともに、尾根から声が降ってきた。
「今日は、一日晴れる。明日の昼から、峠に雪。越える者は、明日の朝までに」
毛皮商は、寝間着の上に外套を羽織ったまま、広場に立ち尽くしていた。
息子は、口を開けたまま山を見上げている。
荷運びの男は、その場で膝をついて、何か祈りの言葉をつぶやいていた。
「……しゃべった」
毛皮商は、ロルフと同じことを言った。
◇
客は、それから毎日のように来た。
二日目には、峠の向こうの砦へ向かう兵士が四人。
三日目には、雪の来る前の朝のうちに、南の町の粉屋の親戚だという夫婦と、竪琴を背負った吟遊詩人が峠を越えてきた。
吟遊詩人は、竜の歌を作りたいのだと言って、炭焼き小屋の大岩の前に一日じゅう座り込んでいた。
竜は、一度も歌わなかった。
「見世物ではない」
尾根の上から、それだけ言った。
吟遊詩人は、それをそのまま歌の一節にした。
見世物ではない、と竜は言った。
私は、その歌を広間で三回聞かされた。
「ところで、竜と話せる娘ってのは、あんたのことだろう」
三回目を歌い終えたあと、吟遊詩人が竪琴を膝に置いて言った。
細い指で弦を押さえて、こちらをじっと見ている。
「竜の守り人の血を引く娘。山の上で竜と一晩語り明かした娘。南の町じゃ、そういうことになってる」
「宿屋の娘です」
私は、空いた皿を盆に重ねながら答えた。
「ただの宿屋の娘が、どうして竜の言葉を知ってる」
「……さあ。どうしてでしょう」
吟遊詩人は、肩をすくめて、また弦を鳴らした。
その晩の歌には、新しい一節が増えていた。
宿屋の娘は、何も答えなかった、と。
白樺亭の客室は、六つとも埋まった。
冬のあいだに六部屋が埋まるのは、私が生まれてから初めてだった。
「あんた、鍋もう一つ出して。それから、パンが足りない」
母さんは、朝から晩まで走り回っていた。
口ではずっと文句を言っていたけれど、顔はずっと笑っていた。
父さんは、帳場で黙って帳簿をつけ、ときどき薪を割りに出ていった。
私は、厨房で鍋をかき回した。
母さんの豆と塩漬け豚の煮込みに、少しだけ蜂蜜と杜松の実を足す。
資料集の料理の頁の、もう一つの献立だ。
守り人の村の、冬の煮込み。
「なんだい、これ。うまいな」
兵士の一人が、匙を持ったまま声を上げた。
「竜の煮込みです」
とっさに、そう答えていた。
母さんが、竈の前でむせた。
その日から、白樺亭の煮込みは「竜の煮込み」になった。
竜は、一口も食べていないのに。
兵士たちは、二晩泊まって、峠の向こうの砦へ発っていった。
空いた部屋には、その日のうちに、峠を越えてきた新しい客が入った。
発つ前の晩、広間で煮込みのお代わりをしながら、年かさの兵士が言った。
「南の町の代官所でも、えらい評判だぞ。代官さまが、竜の話を聞いて、たいそうご機嫌だそうだ」
「ご機嫌、ですか」
「ああ。北の村に竜の守り人が戻ったなら、王都への土産話になるってな。あの代官さまが機嫌のいいときは、だいたい、ろくなことがない」
兵士は、そう言って笑った。
冗談のつもりだったのだろう。
帳場で帳簿をつけていた父さんの手が、一瞬だけ止まったのが見えた。
その夜、客がみんな部屋に引き上げたあと、母さんは帳場で銅貨と銀貨を数えた。
数えて、もう一度数えて、それから両手で顔を覆った。
「冬に、こんなに入ったのは初めてだよ。屋根の雪囲いを、春に直せる」
「よかったね、母さん」
「よかったよ。……よかったけどさ」
母さんは、顔から手を離して、父さんを見た。
父さんは、黙って帳簿を閉じた。
「稼ぎが増えりゃ、代官所が黙っちゃいない」
それだけ言って、父さんは灯りを消した。
◇
入口の板は、毎朝、私が書いた。
字は、少しずつまっすぐになった。
峠を越える客は、出発の前に必ず板の前で足を止める。
読んでから、空を見上げて、頷いて出ていく。
竜の見立ては、一度も外れなかった。
「この板があるだけで、峠の行き来が倍は楽になる」
毛皮商は、帰り際にそう言った。
「娘さん。この村は、化けるよ。竜と話せる村だ。南の町じゃ、もう誰もが知ってる」
褒めてくれているのは分かった。
けれど、私は笑えなかった。
誰もが知っている。
それは、知ってほしくない人にも届く、ということだ。
その夜、窓から山に向かって言った。
「ヴェルグ。お客さんが、増えました」
「知っている。毎朝、私の声を聞きに来る顔が、日に日に増える」
「嫌じゃないですか」
「子どもの昔話の方が、よほど骨が折れる」
竜は、少し黙った。
「人が増えるのは、悪いことではない。百年前の村も、冬はにぎやかだった」
それから、低い声で付け足した。
「ただ、人が増えれば、欲も増える」
私は、その言葉を胸の中で繰り返した。
欲も増える。
ゲームの中のハルデ村は、この冬に焼けて、それきりだった。
だから私は、この村のその先を、何も書いていない。
焼けずに残った村に、竜と話せる村という噂が立ったら、何が起きるのか。
分からない。
台詞を考えるのは得意でも、台本の外のことは、私にも読めない。
◇
四日目の夕方、広場に、黒塗りの馬車が止まった。
四頭立ての、立派な馬車だった。
扉に、金色の紋章が描いてある。
御者台から、毛皮の外套を着た従者が飛び下りて、恭しく扉を開けた。
広場にいた村の人たちが、さっと道を空けた。
村長が、帽子を握りしめて、転がるように駆けていく。
その顔が、雪よりも白かった。
「……代官さまだ」
誰かが、小さな声で言った。
馬車から、男が一人、ゆっくりと下りてきた。
磨き上げた長靴が、広場の雪を踏む。
男は、白樺亭の看板を見上げ、それから入口の板に目をやって、薄く笑った。
「なるほど。これが、竜の見立てか」




