第16話 竜の蜂蜜酒
資料集の料理の頁は、本当は、誰にも頼まれていなかった。
隠しルートの終わり近くで、ヒロインは冬至の夜に蜂蜜酒を持って岩棚へ登る。
台本には「蜂蜜酒の瓶を差し出す」としか書いていない。
それでも私は、その蜂蜜酒がどうやって作られたのかを、二頁かけて書いた。
誰も読まない頁だった。
入稿の前に、「ここは削ってもいいですか」と聞かれて、いいですよと答えた頁だ。
その二頁を、私は全部覚えていた。
「冬の蜂蜜を、湧き水で溶く。杜松の実を一握り。白樺の皮を、指一本ぶん」
厨房の卓で指を折りながら言うと、母さんが眉を寄せた。
「白樺の皮? そんなもの入れて、飲めるのかい」
「香りがつくの。それから、ここからが大事なんだけど」
私は、少し声を落とした。
「仕込んだ樽を、竜の息で温めた石の上に、一晩置く」
母さんは、しばらく黙っていた。
それから、父さんの方を見た。
父さんは、黙って帳場の帳簿をつけていた。
「……あんたの父さんに似て、変なことを言い出す子だよ」
「冬は寒すぎて、蜂蜜酒が目を覚まさないでしょう。うちのも、秋に仕込んで、春まで待つ。でも、竜の息で一晩温めると、すぐに目を覚まして、冬至までに飲めるようになるの」
これも、資料集に書いたことだ。
本当にそうなるのかは、知らない。
冬至まで、あと二十四日。
間に合うかどうかは、竜の息しだいだった。
◇
湧き水は、炭焼き小屋の裏から汲む。
雪の下で一年じゅう凍らない泉で、山の奥から細く流れてくる。
資料集では「守り人の泉」と書いた。
村では、ただ「小屋の裏の水」と呼ばれている。
父さんが、小さな樽を橇に載せて引いてくれた。
蜂蜜は、去年の秋に採ったぶんが貯蔵庫にあった。
母さんは、最後まで渋い顔をしながら、いちばん上等な壺を出してくれた。
トマも、勝手についてきた。
「竜さまに、火を吹いてもらうの?」
「火じゃなくて、息」
「同じじゃないの」
「全然違う。火を吹いたら、樽が燃えちゃう」
炭焼き小屋の脇の大きな岩には、蜂蜜酒の瓶が八本並んでいた。
その横の雪をどけて、川原から運んだ平たい石を並べる。
父さんは、石を並べ終えると、少し離れた木の陰まで下がった。
口では言わないけれど、まだ竜が怖いのだ。
私は、尾根を見上げた。
「ヴェルグ。お願いがあります」
尾根の上で、雪がさらさらと崩れた。
大きな頭が、岩の陰からゆっくりと現れる。
木の陰で、父さんが息を呑む気配がした。
トマは、私の外套の裾をぎゅっとつかんだ。
金色の目が、石と樽と、私を順に見た。
「……私の息で、酒を温めろと」
「はい。一晩ぶんの温かさで、いいんです」
竜は、鼻から長い息を吐いた。
白い湯気が、尾根から斜面を滑り下りてくる。
まだ石には届かない。
「百年前にも、同じことを頼みに来た者がいた」
私は、顔を上げた。
「守り人の村の女たちだ。冬至の前になると、樽を担いでこの泉まで来た。私は毎年、文句を言いながら石を温めた」
「文句を、言ったんですか」
「竜の息を、竈の代わりにするなと」
竜の目が、ほんの少し細くなった。
それから、大きな頭が、尾根から斜面へと下りてきた。
近い。
岩棚で見上げたときより、ずっと近い。
竜は、並べた石の上に、静かに息を吹きかけた。
熱い風ではなかった。
春の日向のような、柔らかい温かさが、雪の上を流れた。
石の周りの雪が、音もなく溶けていく。
石の表面から、薄く湯気が立ちのぼった。
私は、その上に樽を据えた。
手のひらを当てると、木の肌がほんのりと温かい。
竜は、首を伸ばして、樽の匂いを嗅いだ。
それから、長いこと動かなかった。
「……杜松と、白樺の皮か」
低い声が、少しだけ掠れていた。
「その醸し方を、どこで知った」
岩棚で最初に聞いたのと、同じ問いだった。
後ろで、トマが首を傾げている。
父さんは、木の陰で黙っている。
「書いたからです」
私は、竜にだけ聞こえるくらいの声で答えた。
竜は、何も言わなかった。
ただ、樽のそばから、しばらく首を離さなかった。
◇
樽は一晩、温かい石の上で過ごした。
次の朝、父さんと二人で橇に載せて、白樺亭の貯蔵庫へ運び込んだ。
蓋に耳を当てると、中で小さな泡がはじける音がした。
ぷつ、ぷつ、と。
蜂蜜酒が、目を覚ましたのだ。
「本当に、目を覚ましやがった」
父さんが、珍しく声に出して言った。
母さんは、樽の蓋をそっと撫でて、何も言わなかった。
それから、厨房に戻って、いつもより大きな音で鍋を鳴らした。
その日の夕方、ハンナおばあさんが勝手口から入ってきた。
樽の噂は、昼のうちに村じゅうに回っていた。
「その樽を、見せてくれんかの」
貯蔵庫の階段を、おばあさんは私の肩につかまって、一段ずつ下りた。
樽の前に立つと、目を閉じて、鼻から深く息を吸った。
「……白樺の森の匂いじゃ」
「分かるんですか」
「祖母が、よう言うとった。冬至の蜂蜜酒は、白樺の森の匂いがした、と。わしは、子どものころ、それがどんな匂いか分からんかった。森の匂いのする酒なんぞ、あるもんか、と思うとった」
おばあさんは、樽にそっと手を当てた。
皺だらけの指が、少し震えていた。
「あったんじゃのう」
それから、おばあさんは目を開けて、私を見た。
「その酒を岩棚まで運ぶのは、毎年、村の子どもの役目じゃったそうな。いちばん小さな手で、瓶を抱えて」
「子どもが、一人で登ったんですか」
「守り人の子は、竜を怖がらんかったからの」
おばあさんは、そう言って笑った。
私は、岩棚で竜が話した、蜂蜜酒を運んだ子どものことを思い出していた。
小さな手で瓶を抱えて、震えながら、最後まで挨拶を言った子。
あの子も、この匂いの瓶を抱えていたのだろうか。
私は、柱の暦の、冬至の日に小さな印をつけた。
竜は、毎年、文句を言いながら石を温めた。
百年前の守り人の村には、そういう冬があった。
削られた二頁の向こうに、本当の暮らしがあった。
その冬至の蜂蜜酒が、百年ぶりに、この村の貯蔵庫で泡を立てている。
五日後の昼、峠の方から、見知らぬ客が三人、雪を踏んで下りてきた。
白樺亭の入口の板の前で立ち止まると、先頭の男が言った。
「ここかい。竜と話せる村ってのは」




