第13話 半信半疑の広場
南の尾根を下りるのは、登ってきた古い道よりずっと楽だった。
騎士団が踏み固めた雪の上を、二十一人の後ろについて歩けばいい。
それでも、膝は笑っていた。
一晩じゅう雪の中にいて、ほとんど眠っていない。
「嬢ちゃん、背負ってやろうか」
ロルフが、振り返って言った。
「大丈夫です。杖があるので」
「その杖、親父さんのか」
「はい」
「いい樫だ。上等上等」
ロルフは、それきり前を向いた。
少し歩いて、また振り返る。
また前を向く。
歩きながら、ときどき山の方を見上げている。
岩棚はもう林の向こうに隠れて見えないのに、何度も見上げる。
前を行くカイルは、一度も振り返らなかった。
その代わり、左手に持った折れた槍の、巻きつけた青い布を、ときどき指で確かめていた。
林を抜けると、ハルデ村の屋根が見えた。
広場に、人が集まっている。
夜明け前に騎士団が出ていったのを、村じゅうが知っているのだ。
槍の列が尾根を下りてくるのを見て、誰かが叫んだ。
人の輪が、こちらへ崩れてくる。
その先頭を、母さんが走ってきた。
前掛けをしたまま、雪に足を取られながら。
私は、杖を握り直した。
何と言えばいいのか、十年分の台詞の中にも、この場面だけは無かった。
母さんは、私の前で止まった。
息が切れて、すぐには声が出ないようだった。
それから、右手を振り上げた。
ぱん、と乾いた音がした。
頬が熱くなるより先に、母さんの腕が、私の首に回っていた。
「ばか娘」
耳元で、母さんの声が震えた。
「ばか娘。ばか娘。山へ一人で登るなんて。竜のいる山へ。あんたが、いなくなったら。あたしは」
あとは、言葉にならなかった。
母さんの前掛けから、焼きかけのパンの匂いがした。
昼のパンを焼いている途中で、飛び出してきたのだ。
「……ごめんなさい」
それしか、言えなかった。
母さんの背中越しに、父さんが歩いてくるのが見えた。
父さんは何も言わず、私の手から杖を受け取った。
杖の先に、沢の泥がこびりついている。
父さんはそれをしばらく見てから、小さく頷いた。
「おかえり」
それだけだった。
それで、十分だった。
◇
広場の真ん中で、カイルが村長と向き合った。
村長は帽子を胸に当てて、昨日と同じように腰を低くしている。
「騎士さま。竜は、どうなりました」
「討伐は、取りやめる」
広場が、ざわついた。
「竜は人を襲わない。言葉を話す。俺たちは、それを聞いた」
ざわめきが、ぴたりと止まった。
誰も、何も言わない。
村長は、帽子を胸に当てたまま、口を開けて固まっている。
最初に声を出したのは、鍛冶屋のおじさんだった。
「言葉を話す、ですかい。毎晩、吠えてるあれが」
「そうだ」
「わしらは、生まれてこのかた、毎晩あの声を聞いとります。親父も、爺さまも。一度だって、言葉に聞こえたことはねえ」
おじさんの声は、怒っているのではなかった。
困っているのだ。
村の人たちの顔を見回すと、みんな同じ顔をしていた。
この村は百年、山を怖がってきた。
子どもは「悪い子は竜にさらわれる」と言われて育つ。
炭焼き小屋より上へは、誰も行かない。
夜の吠え声は、雪や風と同じ、冬の音の一つだった。
その声に言葉があったと言われても、すぐには飲み込めない。
「俺も聞いたぜ」
ロルフが、一歩前に出た。
「この耳でな。竜が、こっちの団長に、親父さんの話をしたんだ。泣けたねえ、あれは」
「騎士さまがたが、竜に化かされたんでねえのか」
人の輪の後ろから、誰かが言った。
小さな声だったが、広場じゅうに聞こえた。
何人かが、ほっとしたように頷いた。
そう考えた方が、楽なのだ。
百年の怖さを、一晩で手放すよりは。
私は、口を開きかけて、やめた。
宿屋の娘が「竜は優しいんです」と言ったところで、何が変わるだろう。
一晩、山にいた娘だ。
化かされた一人に、数えられるだけだ。
そのとき、人の輪が、すっと割れた。
ハンナおばあさんが、杖をついて歩いてきた。
誰かの肩を借りるでもなく、ゆっくりと、まっすぐに。
カイルの前で止まると、折れた槍に巻かれた青い布を見上げた。
「若い団長さん。その布を、見せてくれんかの」
カイルは、黙って布を槍からほどいた。
色あせた青に、銀糸の鷹。
ハンナおばあさんは、皺だらけの指で、その布の端をそっと撫でた。
「これは、山にあったのかね」
「二十年。竜が、預かっていた」
「預かって、返してくれたのかね」
「ああ」
ハンナおばあさんは、長いこと布を撫でていた。
それから、顔を上げて、広場を見回した。
「わしの祖母が、言うとった。竜は、預かったものを必ず返す。それから」
おばあさんの声は小さかったが、誰も聞き逃さなかった。
「竜は、嘘をつかん」
広場は、しんとしたままだった。
信じた顔もあった。
信じない顔もあった。
半分ずつ、というところだろうか。
それでいい、と私は思った。
百年分の怖さが、半分になった。
一晩でそれなら、上出来だ。
その晩、山の上で、いつものように竜が吠えた。
広間で騎士たちと飲んでいた村の男たちが、一斉に口をつぐんだ。
みんな、耳を澄ませている。
言葉に聞こえるのかどうか、確かめようとしている。
声は、こだまに崩れて、ばらばらに降ってきた。
四拍も三拍も、数えられない。
いつもの吠え声と、何も変わらなかった。
「……やっぱり、吠えてるだけでねえか」
誰かが言って、広間に気の抜けた笑いが広がった。
私は、厨房の窓から山を見上げた。
岩棚の竜は、麓を見下ろして言ったのだ。
あそこまで、届くだろうか、と。
まだ、届かない。
百年ぶりの声は、山を下りるには細すぎた。
◇
騎士団は、予定どおり三泊して、村を発った。
出立の前、カイルは宿の厨房に顔を出した。
私はちょうど、騎士たちの弁当のパンを包んでいるところだった。
「礼を言う。父が話さなかったことを、ようやく聞けた」
カイルは、そう言って頭を下げた。
騎士団長が、宿屋の厨房で。
母さんが、後ろで小麦粉の袋を取り落とした。
「私は、通訳しただけです」
「それだけではないだろう。お前は、竜の問いに答えた。百年、誰も答えられなかった問いに」
カイルは、少しだけ首を傾げた。
灰色の目が、まっすぐに私を見た。
「お前は、何者だ」
「宿屋の娘です」
「……そういうことにしておく」
彼は小さく笑って、厨房を出ていった。
広場で、二十一頭の馬が並んでいる。
ロルフが馬上から大きく手を振った。
カイルは振り返らず、南の街道へ馬を向けた。
ゲームの中のカイルは、本編の最後まで、あんな風には笑わなかった。
回想の冬を、失わずに済んだからだろうか。
私の書いていない笑顔だった。
村の人たちが竜の声を初めて聞いたのは、それから十日後の吹雪の晩だった。




