第12話 聞こえるか、ヴァレンの子
「だが、悪くない」
竜は、そう言った。
意味が分かるまで、少しかかった。
悪くない。
外れた、のではなく。
金色の目が細くなっていたのは、怒っていたからではない。
笑っていたのだ。
昨夜、窓の娘の話をしたときと、同じ目だった。
竜の鱗の隙間から、白い光がこぼれた。
最初は、朝日が反射したのだと思った。
けれど、光は消えなかった。
鱗の一枚一枚を伝って、首から背へ、背から尾へと広がっていく。
岩棚の雪が、光を受けてきらきらと舞い上がった。
騎士たちが、腕で目をかばう。
誰かの槍が、雪の上に倒れる音がした。
何かが、音もなくほどけていく気配がした。
固く結ばれていた糸が、一本ずつ緩んでいくような。
百年、締めつけられていたものが、ようやく息をするような。
光が、竜の喉元に集まって、すっと消えた。
竜が、口を開いた。
「――聞こえるか、ヴァレンの子」
◇
騎士たちが、一斉に後ずさった。
吠え声ではなかった。
低くて、少し掠れた、人の言葉だった。
岩棚の上の誰の耳にも、同じように届いたのが分かった。
カイルの手から、剣が落ちた。
雪に刺さった剣の横で、彼は呆然と竜を見上げていた。
灰色の目が、大きく見開かれている。
初めて見る顔だった。
回想の中の悲しい顔とも、昨日の広間の硬い顔とも違う。
「……聞こえる」
「そうか」
竜は、鼻から長い息を吐いた。
その音さえ、さっきまでとは違って聞こえた。
「お前の父は、よく泣く男だった。雪に埋もれながら、娘の名を呼んで泣いていた」
カイルの肩が、びくりと揺れた。
「お前には、姉がいるのだろう」
「……いる」
カイルの声が、かすれた。
「父が死んだ年に、嫁いだ。……そうか。姉が生まれた冬だったのか」
待つ子。
二十年前、雪の中で父親が呼んでいたのは、生まれたばかりの娘の名前だった。
カイルは、それを知らなかった。
父親は、それも話さなかったのだ。
「そうか。あの男に、伝えそびれたことがある」
竜は、雪の上の折れた槍を、爪の先でそっと押し出した。
カイルの足もとまで。
「槍布を返しておいてくれ。二十年、預かった」
カイルは、雪の上に膝をついた。
それを、両手で受け取った。
「……父は、もういない」
「そうか」
竜は、少しのあいだ黙った。
「人は、早いな」
青い布の上に、ぽたりと雫が落ちた。
雪解けの水だったのか、それ以外のものだったのかは、私には分からない。
◇
しばらく、誰も口をきかなかった。
最初に声を出したのは、ロルフだった。
「……しゃべった」
丸い目を、これ以上ないくらい丸くしている。
槍を握ったまま、口が半分開いていた。
「団長。竜が、しゃべりましたぜ」
「聞こえている」
「いや、そうじゃなくて。竜が、しゃべったんですよ」
「さっきから、聞こえている」
竜が、首を巡らせてロルフを見下ろした。
「よく通る声の騎士だな。昨日の夕方、麓から笑い声が聞こえていた」
ロルフが、ぐっと詰まった。
後ろの騎士たちから、こらえきれない笑い声が漏れた。
いちばん端の若い騎士が、泣き笑いのような顔で、雪の上に座り込んでいる。
岩棚の空気が、ゆっくりとほどけていった。
竜は、騎士たちの笑い声を聞きながら、何度か小さく声を出した。
あ、とか、う、とか。
喉の奥で転がすように。
百年ぶりに、自分の声の形を確かめているのだと分かった。
それから、竜は麓の方へ首を向けた。
朝の光の中に、ハルデ村の屋根が小さく並んでいる。
白樺亭の煙突から、細い煙が一本上がっていた。
「……あそこまで、届くだろうか」
誰に聞かせるでもない声だった。
私は、その場に立ったまま動けなかった。
膝が、がくがくと笑っている。
父さんの杖に、今さらすがりつく。
呪いが、解けた。
ヒロインの答えではなかった。
私の書いた正解ではなかった。
それでも、竜は、悪くないと言った。
この先は、私の知らない物語だ。
それから、少しだけ、胸の奥がすうすうした。
一晩じゅう、竜の言葉が聞こえるのは私だけだった。
吠え声の区切りを数えて、一語ずつ人の言葉に直すのは、私の仕事だった。
これからは、誰の耳にも同じ声が届く。
それでいい。
そのために、登ってきたのだから。
◇
カイルが立ち上がった。
槍布を巻いた折れた槍を、大切そうに左手に持っている。
右手で雪から剣を抜き、ゆっくりと鞘に収めた。
それから、私の前に立った。
「騎士団長、カイル・ヴァレンだ」
知っている。
十年前から知っている。
けれど、彼が自分の口で名乗るのを聞くのは、初めてだった。
「お前の名は」
「リタです。白樺亭の」
「知っている。今朝、母親が何度も呼んでいた」
カイルは、少しだけ目を伏せた。
「……名乗らせたかった。それだけだ」
カイルは私から目を離して、竜を見上げた。
もう、剣に手をかけてはいなかった。
「竜よ。俺たちは、占星院の予言に従ってここへ来た。この冬、北の竜が山を下りると」
「下りる気はない。今のところは」
「その言葉を、王都に持ち帰る。騎士団の名で、報告する」
ロルフが、頭をかいた。
「団長。竜がしゃべりました、なんて報告、王都の誰が信じるんです」
「二十一人が聞いた」
カイルは、短く答えた。
「信じるかどうかは、向こうが決める。俺たちは、聞いたことを書く」
カイルは騎士たちを振り返って、声を張った。
「隊列を組め。昼前に村へ下りる。槍の覆いを戻せ」
騎士たちが、ばらばらと動き出す。
穂先に革の覆いが被せられていく音が、岩棚に続いた。
竜が、首を下ろして私を見た。
「娘。お前も帰れ」
「……また、帰れですか」
「母親が泣いているのだろう。窓の娘が窓にいないと、宿の灯りが寂しい」
私は、思わず笑った。
笑ったら、急に、母さんの顔が見たくなった。
私は、北の空を見上げた。
星はもう、一つも見えない。
占星院の予言は、外れたことがないという。
その予言が、今、初めて外れた。
竜は山を下りず、村は焼けず、騎士団は槍を下ろした。
私の書いていない予言だった。
誰が、何のために、あんな予言をしたのか。
私は知らない。
その予言が外れたという報せを、二十一人の騎士が、王都へ持ち帰る。
↓第1章の番外編「パンが焼けるまで」(リタの母視点。娘が山へ登った朝、待つ側の半日)
https://note.com/wise_turtle184/n/n705c86e06ef3?app_launch=false




