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香の匂い

砦編。

そして、資時との別れへ向かう物語です。


かなり感情を込めて書いた回になります。

 島の奥、岩肌に溶け込むように築かれた石の砦は、外から見ればただの崖にしか見えなかった。だが内に入れば、狭い通路と重なる石壁が迷路のように連なり、少数で大軍を食い止めるための工夫が随所に施されている。


「ここで迎え撃つ」


 少弐資時の声は静かだった。疲労は隠しきれないが、その目には揺らぎがない。武士たちは短く応じ、持ち場へ散っていく。


 ステフは入口付近の高みを見渡し、射線を確認した。昨日の戦で弾も手榴弾も減っている。ここからは、ひとつの判断が命取りになる。


(ここが最後の踏ん張りどころだ)


 息を吐いた、そのとき。


 砦の奥で、資時が一人、香炉に火を入れていた。白い煙が細く立ちのぼり、甘く澄んだ香りが漂う。彼は小さな袋にその香を移し、鎧の内へと収めていく。乱れた髪を整え、衣の襟を正し、帯を締め直す――一つ一つが、やけに丁寧だった。


(……その作法)


 ステフは知っていた。敵に討たれ、首を取られても、無様にならぬように。武士が最後に整える“身支度”。


(なんで、今それをやる)


 胸がざわつく。嫌な予感が、形を持ち始める。


「資時」


 呼ぶと、彼は振り向いた。


「どうした」


 いつもの調子。だが、血の気がない。頬の色が薄く、唇が乾いている。


「顔色、悪いよ。無理してない?」


「しておらぬ」


 即答。短すぎる言葉。


「ほんとに?」


「問題ない」


 それ以上は語らない。視線を逸らす。


(……隠してる)


 確信が胸に落ちた瞬間――


「敵襲!」


 見張りの声が砦に響いた。


 思考は断ち切られる。


 元軍が再び押し寄せた。狭い入口に兵が殺到し、矢が雨のように飛び込んでくる。石壁に当たって砕ける音が連なり、火花が散る。


「構えろ!」


 資時の号令。


 武士たちは呼応し、入口を固める。槍が突き出され、刀が閃く。上から石を落とし、侵入を阻む。敵は倒れる。だが、すぐに次が来る。波のように、途切れない。


 ステフは側面の狭間から銃を構えた。呼吸を整え、引き金を引く。指揮を執っている者を優先的に落とす。倒れれば、列が乱れる。だが――


(多すぎる)


 撃っても、撃っても、埋まる。弾数の残りが頭をよぎる。


 時間だけが過ぎる。日が傾き、腕が重くなる。喉が焼ける。誰もが限界に近い。


 それでも――


 踏みとどまるしかない。


 やがて日が沈み、敵は一度引いた。完全な退却ではない。浜に戻り、態勢を立て直しているだけだ。


 だが、息をつける。


 砦の中で、武士たちはその場に座り込み、荒い呼吸を整える。誰もが無言だ。


 ステフは資時を探した。


 見つけた。奥の石に腰を下ろし、刀を杖のように立てて体を支えている。


(……おかしい)


 近づく。


「資時」


 反応が遅い。ゆっくりと顔を上げるが、焦点がわずかにずれている。


「……どうした」


 声がかすれている。


「ちょっと見せて」


 肩に手を伸ばし、布をめくる。


「――ッ」


 息が止まる。矢が刺さっていた箇所の周囲が、黒く変色している。わずかな腐臭。


(毒……!)


「なんで言わなかったの!?」


 思わず声が荒くなる。


 資時は、かすかに笑った。


「……言えば、どうにかなるものでもあるまい」


「馬鹿……!」


 言葉が続かない。分かってしまう。この時代では、解毒は望めない。


 その夜、火を囲んで、ステフは資時の父・少弐経資と祖父・少弐資能に向き合った。


 沈黙の中、ステフは告げる。


「毒です」


 資能が目を伏せ、経資が静かに息を吐く。


「……長くはあるまいな」


 重い言葉。


 否定はできない。


 そのとき。


「その通りだ」


 資時が歩み寄る。足取りはわずかに不安定だが、立っている。


「資時……」


 経資の声に、資時はうなずく。


「時間はない。ゆえに、動く」


 はっきりと。


「父上、お爺さま」


 呼びかける。


「島民を連れて、ここを出てくだされ」


「何を言う」


 経資が低く返す。


「ここを捨てるのか」


「違う。繋ぐのです」


 一拍。


「砦には隠し通路がある。海岸へ抜ける道」


「そこから脱出し、博多へ。叔父上――少弐景資のもとへ」


「蒙古を迎え撃つ備えを整えていただきたい」


 静かな、しかし揺るがぬ声。


「ここで終わらせてはならぬ」


 ステフが踏み出す。


「じゃあ、あんたはどうするの」


 分かっている。それでも、問う。


 資時は、わずかに笑った。


「残る。時間を稼ぐ」


「ふざけんな!」


 声が震える。


「一緒に行く!」


「無理だ」


「なんで!」


 資時はまっすぐ見た。


「お前に託したい」


 言葉が胸に落ちる。


 資時は、息を整え――無理に笑顔を作る。


「鎌倉武士の強さを蒙古の奴らに思知らせてほしい……。其方の国、アメリカ人の武勇を蒙古に見せつけてやれ」


 その笑顔が、あまりにも無理で。


 だからこそ、胸を締め付けた。


「……やだ」


 涙が溢れる。


「置いてくなんて……」


 資時は何も言わない。ただ見ている。


 その静けさが、残酷なほど優しい。


 やがて、ステフは歯を食いしばる。


(分かってる)


 これが最善だと。


 だから――


「……絶対、無駄にしない」


 涙を拭う。


「仇、討つ」


 資時は、ゆっくりとうなずいた。

「アメリカ人の武勇を蒙古に見せつけてやれ」


資時の最後の願い。

無理に笑う十九歳を書くのが本当に辛かったです。

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