頃合い
壱岐奪還戦開始。
静かな老将が、ついに牙を剥きます。
弘安四年六月二十九日。
博多湾を出た船団は、壱岐を目指して進んでいた。
総大将――少弐資能。
齢八十四。
老将自らが前線へ出る。
それだけで、九州武士たちの士気は高かった。
船団には少弐経資の軍勢に加え、島津長久、龍造寺家清ら九州各地の武士たちも参陣している。
潮風が吹く。
空は曇天。
誰もが壱岐の方角を見ていた。
ステフも船縁に立ちながら、拳を握る。
(……戻ってきた)
資時が命を落とした島。
そして。
彼が守ろうとした島。
やがて壱岐が見えた。
浜辺。
砦。
黒煙。
元軍の旗。
敵は完全に島へ陣取っていた。
「来るぞ!」
誰かが叫ぶ。
その瞬間。
無数の矢が空を埋めた。
「伏せろ!!」
怒号。
矢が船へ突き刺さる。
盾へ。
甲板へ。
兵へ。
悲鳴が上がる。
「くそっ……!」
ステフが身を伏せる。
元軍の弓は凄まじかった。
まるで現代の制圧射撃。
次から次へ飛んでくる。
船が浜へ近づくたび、矢の雨が襲う。
「押し返されるぞ!」
「船を下げろ!」
武士たちは必死に応戦する。
だが。
上陸できない。
浜辺へ降りた瞬間、集中攻撃を受ける。
盾兵。
長槍。
弓。
統率された元軍。
日本軍は何度も押し返された。
初日。
大きな戦果なし。
そして二日目。
再び攻める。
また押し返される。
海は赤く染まる。
負傷兵が呻く。
武士たちの表情にも焦りが見え始めていた。
「……っ」
ステフは歯を食いしばる。
まただ。
また同じ攻撃。
正面から浜へ向かい、矢で押し返される。
(何やってんの!?)
思わず資能を見る。
老将は船上で静かに戦場を眺めていた。
焦りがない。
まるで待っているように。
「爺さん!」
ついにステフは叫んだ。
「このままじゃ味方が全滅しちゃうよ!」
周囲の武士たちがぎょっとする。
総大将相手に。
だが資能は怒らない。
ただ静かに言う。
「黙って見ておれ」
「でも――!」
「頃合いではない」
その目は鋭かった。
まるで全て計算しているかのように。
ステフは苛立つ。
(頃合いって何だよ……!)
人が死んでいる。
なのに。
この老人は動かない。
だが資能は、別の光景を見ていた。
七年前。
文永の役。
あの日。
総大将として太宰府から博多湾へ向かったのは、景資ではなく自分だった。
その道中。
まだ十二歳の資時が、鎧をぎこちなく着込みながら馬に乗っていた。
小さかった。
鎧も似合っていない。
まだ子供だった。
『お爺様!』
必死な顔。
『急がねば味方が全滅してしまいます!』
若い声。
焦り。
恐怖。
それでも戦おうとしていた。
資能は思わず笑った。
『よいか資時』
馬を並べる。
『戦は駆け引きじゃ』
資時が不思議そうに見上げる。
『頃合い、というものがある』
『資時、急ぐな』
そう言って、頭を撫でた。
資時は少しむくれた顔をした。
『ですが!』
『ふはは、お前は真っ直ぐすぎる』
『武士は時を待つことも戦よ』
そのときの顔。
今でも覚えている。
(……似ておる)
資能は思う。
焦るステフ。
真っ直ぐで。
目の前の命を助けたくて。
資時によく似ていた。
三日目の朝。
海風が吹く。
日本軍は再び浜へ向かった。
だが。
そのときだった。
資能の目が細くなる。
(……減った)
元軍の矢。
露骨に数が少ない。
昨日まで空を覆っていた弾幕のような射撃が、明らかに弱まっている。
武士たちはまだ気づいていない。
だが資能は見逃さなかった。
一つ。
元軍の矢が尽き始めていること。
そして――
もう一つ。
敵の視線。
そのほとんどが、正面の浜辺へ向いていること。
資能は静かに壱岐の裏側を見る。
岩場。
隠し通路。
あの日。
資時たちが島民を逃がした道。
元軍は、まだ完全には把握していない。
そこからなら。
突ける。
老将の目に、鋭い光が宿る。
「頃合いじゃ」
低い声。
経資が振り向く。
「父上?」
資能は立ち上がる。
そして。
怒号のように叫んだ。
「総攻撃じゃぁぁぁ!!」
武士たちがどよめく。
「浜から押し込め!」
「島裏の岩場より別働隊を突入させよ!!」
「敵を挟み潰せぇぇ!!」
ステフが目を見開く。
(最初から……)
この老人は待っていた。
敵の矢が尽きる瞬間。
そして。
敵の目が正面へ向く瞬間を。
「ステフ!!」
資能が叫ぶ。
ステフを見る。
「お主も来い!!」
老いた顔。
だが。
その目は獣のようだった。
「今こそ壱岐を取り返すぞ!!」
その言葉に。
武士たちが雄叫びを上げる。
資能は、自ら船の先頭へ立った。
逃げる気などない。
八十四歳の老将は。
自ら島へ乗り込む覚悟を決めていた。
資能の「戦は駆け引きじゃ」は、老将らしい経験の重みを意識して書きました。
ステフと資時の構図を、資能へ重ねている回でもあります。




