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婚約解消、承知いたしました。立替金の期日は来月十日でございます 〜利息はいただきません。元本だけで足りなくなるはずですので〜  作者: 若槻すみか


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第9話 慣習では、と家令は申しました

期日まで、あと十二日。証文の効力について、書付が一通。

 ボルグ様は、書付を卓の上に置いて、指で二度、押さえられました。


「王都法学館の、モーゼル先生に見ていただいたものでございます」


「拝見いたします」


 書付は一枚きりでございました。字は細く、余白が広うございます。要点だけが書いてございました。


 婚約者のあいだで一方が他方の家の入り用を負担した場合、それは婚姻を前提とした贈与とみなされる。婚約が解消された場合においても、当該の贈与について返還を求めることは、古来の慣わしとしてこれを認めない。


 わたくしは二度読みました。


「これは、法でございますか」


「慣わしでございます」


「慣わしは、書かれているものでございますか」


「書かれてはおりません。ですから慣わしと申します」


 ボルグ様は、背筋を伸ばしたままお答えになりました。この方は、嘘を仰っているわけではないと思います。ご自分がお仕えする家のために、使えるものを探して、見つけて、持っていらした。それだけのことでございます。


「モーゼル先生は、この慣わしが今も生きていると仰るのでございますか」


「王都では、十年ほど前にこの慣わしで争われた例がございます。判じたのは家門の会でございますが、贈与とされました」


「その例では、控えはございましたか」


 ボルグ様は、一度だけ黙られました。


「……存じません」


「はい」


 わたくしは書付を返しました。返してから、卓の上で手を組みました。


 この主張が通るかどうかは、わたくしには分かりません。うちの帳場は法を扱う場所ではございません。ただ、通るか通らないかを争うことになれば、それだけで月がかかります。家門の会にかけるとなれば、季節が変わります。


 期日は、来月十日でございます。争いが始まれば、期日は意味を失います。


 うちの帳場でも、争いになった貸しが二件ございます。一件は三年前から、もう一件は五年前からでございます。どちらも、金額はさほど大きくございません。大きくないのに、いまだに閉じておりません。


 閉じない貸しは、毎月の締めのたびに数えます。数えるたびに、その月は少しずつ重くなります。わたくしは、あれを七年ぶんの控えでやりたくないのでございます。


 閉じるために期日を切りました。期日を切ったせいで争いになるのでしたら、順序が逆でございます。逆になったものを元へ戻す手を、わたくしはまだ持っておりません。


「ボルグ様」


「はい」


「これを持っていらしたのは、奥様のお指図でございますか」


「わたくしの一存でございます」


 その言葉も、たぶん本当でございます。


「お嬢様に申し上げます」


 ボルグ様は、はじめてわずかに身を乗り出されました。


「当家は、決してお嬢様を軽んじてはおりません。ただ、当家には三代にわたる名がございます。婚約者から金を借りて返せなかった家、という名を残すわけにはまいりません」


「残るのは名ではなく、控えでございます」


「その控えを、無効にしていただきたいのでございます」


 部屋の中で、両替の台の銀貨の音が聞こえておりました。うちの店は、こんな話をしているあいだも動いております。


 わたくしは、そのとき、少しだけ息が浅くなりました。


 金額を争われるのであれば、こちらには控えがございます。日付を争われても、控えがございます。けれどこの方は、控えそのものを見ないと仰っております。書いてあるかどうかではなく、書いてあっても数えない、という話をしておられます。


 七年、わたくしが毎晩していたことは、そこでは何の意味も持ちません。


 そのとき、奥の帳場から声がいたしました。


「ボルグ様」


 ヨナスでございました。算盤を置いて、こちらへ歩いてまいりました。


「うちは七年、一日も欠かさず控えを取っております」


「存じております」


「無効になさるのはご自由でございます。ですが、控えは残ります」


 ヨナスは、卓の横に立ったまま、それだけ申しました。


「無効になった控えというのは、この世で二番目に厄介なものでございます」


「二番目とは」


「一番は、無効にした後で出てくる控えでございます」


 ボルグ様は、しばらくヨナスをご覧になっておいででした。それから、書付を懐へお戻しになりました。


「お返事は、いつまでに」


「三日いただきます」


「承知いたしました」


 ボルグ様がお帰りになったあと、わたくしは椅子に座り直しました。


「ヨナス」


「はい」


「二番目に厄介というのは」


「思いつきでございます」


 ヨナスは、算盤を右手で一度弾きました。


「ですが、一番のほうは本当でございます」


 わたくしは顔を上げました。


 ヨナスは、算盤を袋にしまいながら、こう申しました。


「明日、組合へ行っていただけますか。帳簿方のレンメルトという若い者に、七年前からの預かりのことで、と仰っていただければ通じます」


「……ヨナス」


「わたしは、お店を開けておかねばなりませんので」


 その晩、わたくしは棚の簿冊を全部出して、七年前の九月の頁をもう一度開きました。


 組合へ預けた記録は、たしかにございます。書いたのは、わたくしではございません。

「無効になった控えというのは、この世で二番目に厄介なものでございます」「一番は、無効にした後で出てくる控えでございます」——このやり取りを書きたくて、ボルグ様には少々お気の毒な役をお願いいたしました。なお、ヨナス本人は二番目のほうは思いつきだと申しております。一番のほうは、本当でございます。


書いてあるかどうかではなく、書いてあっても数えない。この物語でいちばん深い谷は、おそらくここでございます。


その谷から、次の話で出ます。ミレーユが持っていないものを、組合が持っておりました。第十話「控えは、二通ございました」。

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