第5話 最初の八十枚
期日まで、あと二十日。この日に届いたのは、金貨八十枚の手形が一枚。
初回の八十枚は、約束どおりに届きました。
届けにいらしたのは家令のボルグ様でございました。六十を過ぎた方で、三代にわたってヴァイセル家にお仕えだそうでございます。背筋の伸びた方で、うちの帳場に入っても、椅子をすすめるまでお座りになりませんでした。
「奥様より、初回分でございます」
ボルグ様が卓に置かれたのは、金貨ではございませんでした。一枚の書付でございます。
「シュタイン商会あての手形でございます。あちらでお引き受けいただけます」
わたくしは書付を受け取って、日付と、金額と、振出しの印を確かめました。金貨八十枚。振出しはヴァイセル伯爵家。引受はシュタイン商会。
「お預かりいたします」
「では、控えに」
「はい。ただ、控えには『手形受領』と書かせていただきます」
ボルグ様の眉が、わずかに動きました。
「入金ではないと」
「手形は、引き受けていただいて初めて金になります。それまでは紙でございます」
「シュタイン商会は、当家と長いお付き合いでございます」
「存じております。ですから、たぶん通ると思っております」
わたくしは控えにそう書き入れて、日付を入れました。残額の欄には、まだ手をつけませんでした。
ボルグ様がお帰りになったあと、ヨナスが手形を光にすかしておりました。
「振出しの印は正しゅうございます」
「はい」
「ただ、これは今日の日付ではございませんな」
わたくしも気づいておりました。手形の日付は、三日前になっております。三日前に振り出して、今日持っていらした。
三日のあいだ、この手形はどこにあったのでしょうか。
翌日の午後、シュタイン商会から使いが参りました。
手形は差し戻されておりました。
添えられていた文には、丁寧な言葉が並んでおりました。かねてよりお取引をいただいている当家といたしましては、まことに心苦しいことながら、ヴァイセル伯爵家との取引につきましては、目下、勘定の突き合わせを行っている最中でございまして、新たなお引き受けは差し控えさせていただきたく。
つまり、シュタイン商会もヴァイセル家に貸しがあるということでございます。
わたくしは控えを開いて、昨日書いた「手形受領」の行の下に、一行足しました。
「翌日、引受先より差し戻し。入金なし」
残額の欄には、もとの数字がそのまま残っております。
金貨千二百四十枚。
昨日、この数は八十枚だけ減るはずでございました。減ったところを一度も見ないまま、また元に戻りました。
うちの帳場では、こういうことは月に何度もございます。手形が戻ってくるのは珍しいことではございません。ただ、戻ってきた手形を持って先方へ行くのは、いつも気の重い仕事でございます。
差し戻しには、二つの意味がございます。払えないという意味と、払いたくないという意味でございます。前のほうであれば、期日を延ばして差し上げれば片づきます。後のほうは、片づきません。
シュタイン商会の文には、勘定の突き合わせという言葉が使ってございました。突き合わせるものがあるということは、あちらにも控えがあるということでございます。
わたくしはその文を、控えの束のいちばん後ろに綴じました。うちの控えではございませんが、日付のあるものは残しておきます。
わたくしは外套を取りました。
「お嬢様」
「はい」
「お一人で行かれますか」
「はい」
ヨナスは何も言わずに、算盤を袋にしまいました。それから、思い出したように仰いました。
「戻ってきた手形は、置いてお帰りにならないほうがよろしゅうございます」
「はい」
「あちらは、預けたとお思いになりますので」
ヴァイセル家のお屋敷では、レオノーラ様が応対なさいました。テオドル様はお留守でございました。
「差し戻されましたわ」
わたくしが差し出すより先に、レオノーラ様が仰いました。すでにご存じでございました。
「シュタインさんも、ずいぶん薄情なこと」
「はい」
「あちらにも当家との行き来がございますのよ。それを、こんな」
「はい」
わたくしは手形を卓に置きました。置いてから、指を離しませんでした。
「これは、お返しいたします」
「置いていってくださって結構ですのに」
「置いてまいりますと、お納めいただいたことになります。お納めいただいておりませんので、お返しいたします」
レオノーラ様は手形をご覧になって、それから、わたくしをご覧になりました。
「来月十日まで、あと二十日ですわね」
「十九日でございます。本日をお数えになりませんでしたら」
「……十九日」
「はい」
レオノーラ様は、白湯もお茶もお出しになりませんでした。
「あなた、うちを潰すおつもり」
「いいえ」
わたくしは首を振りました。
「潰すおつもりでしたら、利息をいただいております。そのほうが早うございますので」
お屋敷を出て、石段を下りました。門のところで一度だけ振り返りました。
二階の窓に、人影が二つ見えました。テオドル様がお戻りになったのだと思います。
その晩、うちの帳場に、組合の使いの方が別の用でお見えになりました。荷の話が済んだあとで、その方がついでのように仰いました。
「ヴァイセル様のお家に、ご縁談があるそうでございますよ」
「さようでございますか」
「リンドナー様のお家だそうで。持参の金子が、ずいぶんな額だとか」
わたくしは控えを閉じて、棚に戻しました。
閉じたところで、日は減ります。
分納は、逃げ道になりましたでしょうか。八十枚は、たしかに動きました。動いて、そのまま戻ってまいりました。手形というものは、引受先が首を横に振れば、ただの紙でございます。残額は千二百四十枚。ひと月まえと同じ数字が、ひと月ぶん重くなって帳面に帰ってくる——その気味の悪さを書きたい回でした。
そして、あちらの家に別の解が現れます。持参の金子で払えばよい、という、いちばん筋の悪い希望でございます。第六話「新しいご縁談」。
——ブックマークと評価をいただけましたら、算盤の珠のひと粒に。弾いても金は増えませんが、数えたことだけは残ります。




