偽物の当主
門をくぐった瞬間、空気が変わった。
外の山の空気とは違う。
静かで、澄んでいて――張り詰めている。
足元の白砂は一切の乱れもなく均され、松や庭石はまるで意味を持って配置されているようだった。
風が吹いても、その音すら整って聞こえる。
ここは“管理されている空間”だ。
「こちらです、鷲津さま」
凜に促され、俺は無言で頷いた。
渡り廊下に足を踏み入れる。
磨き上げられた木の床が、かすかに軋む。
左右には庭園が広がっていた。池には鯉が泳ぎ、石灯籠の影が水面に揺れている。遠くで滝の音が聞こえた。
……綺麗すぎる。
落ち着くはずの景色なのに、なぜか気が抜けない。
視線だ。
廊下の端、庭の向こう、障子の影――
屋敷中の人間が、こちらを見ている。
「……見られてるな」
小さく呟くと、凜はわずかに頷いた。
「当然です。鷲津さまが屋敷を空けられてから、三日」
三日。
その言葉に、思考が止まる。
「……俺はさっきまで――」
言いかけて、やめた。
凜は振り返る。
「記憶に混乱があるご様子ですね」
「……ああ」
「ご安心ください。詮索はいたしません」
その一言に、わずかに呼吸が楽になる。
やがて、大広間へと通された。
畳敷きの空間。高い天井。太い梁。
正面の床の間に、一枚の肖像画。
そして俺は、息を呑んだ。
「……これが……雷山鷲津……」
そこにいたのは、俺だった。
同じ顔。同じ体格。
だが、目が違う。
迷いのない、圧倒的な強さを宿した眼。
「……こんなの、無理だろ」
漏れた本音。
凜は、静かに目を伏せた。
「……ええ」
その沈黙を破るように、襖が開く。
「お帰りなさいませ、当主様」
振り向くと、五人の人物。
空気が変わる。
「タカにございます。お戻りをお待ちしておりました」
重い声。
その直後――
「いやぁ、やっと帰ってきましたか、鷲津さま」
軽い声が混ざる。
眼帯の男が気楽そうに手を挙げる。
「三日もいなくなるとか、普通に困るんですけどね」
「ギン」
凜の声が鋭くなる。
「当主様に対して、その言い方は控えてください」
「はいはい」
ギンは笑う。
だが口調はラフなのに、ちゃんと“様”は付けている。
「でもさ、あの人も堅苦しいの嫌いでしたよね、鷲津さま?」
そう言って、こちらを見る。
その目はどこか試すようで――少しだけ優しい。
「……ずいぶん雰囲気変わりましたね」
ぽつりと呟く。
凜がすぐに間に入る。
「記憶に混乱があるご様子です。軽率な発言は控えてください」
「おーこわ」
ギンは肩をすくめる。
「相変わらずですね、凜は」
「あなたが変わらないだけです」
即答だった。
そのやり取りは自然で、距離が近い。
だが、踏み込まない距離もある。
「……様子が違う」
低い声。
ハンゾウがこちらを見ている。
「気配が、以前と異なる」
鋭い。
その時。
「はっ、気のせいだろ」
金髪の男が壁にもたれたまま言う。
「鷲津がそんな簡単に変わるかよ」
呼び捨て。
だが誰も止めない。
「強さが全部だろ、あいつは」
俺を見る。
「弱くなってねぇなら、それでいい」
心臓が跳ねる。
呼吸が浅くなる。
――まずい。
バチッ。
火花。
足元から雷が走る。
ゴロォォォン……
空が鳴る。
静寂。
「……ほらな」
金髪の男が笑う。
「変わってねぇ」
タカが頷く。
「雷が応えております」
ギンは、じっとこちらを見ていた。
「……まあ、いいか」
小さく呟く。
「鷲津さまが鷲津さまなら、それで」
その一言が、やけに引っかかった。
凜が前に出る。
「当主様はお疲れです。本日はこれにて」
場を締める。
やがて全員が去っていく。
静寂。
その瞬間、俺は崩れ落ちた。
「……無理だろ……」
震える声。
震える手。
凜が隣にしゃがみ込む。
「大丈夫です」
少し離れたところで、ギンが壁にもたれていた。
「……なあ、凜」
軽い声。
「本当に“大丈夫”か?」
凜は一瞬だけ黙る。
「……問題ありません」
ギンは小さく息を吐く。
「そっか」
その視線は――
ほんの少しだけ、優しかった。




