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休職中に異世界へ

また今日も、不安感に押しつぶされそうになる。


休職して、もう二か月。


何年も勉強して、ようやく合格した地方公務員だった。

だが入庁二年目の春、終わりの見えない業務量に心が耐え切れず、俺は休職した。


体調はかなり戻った。飯も食えるし、眠れる。


それでも心だけが、ずっと沈んだままだ。


家にいると、嫌なことばかり考えてしまう。


復帰しても地獄。辞めても無職。

将来なんて、もう真っ暗だった。


だから最近は、毎日のように近所の自然公園を歩いている。


風の音を聞いている間だけは、不安を忘れられた。


「……このまま、どこか遠くへ行けたらな」


もちろん、そんなことができるわけがない。


生きるには金が要る。

金を得るには働かなきゃいけない。


分かっている。分かっているけど――。


「あー……マジで、どうすっかな……」


考え始めると、また胸の奥がざわついてくる。


俺は頭を振り、緑に囲まれた遊歩道を歩いた。


五月の風が木々を揺らし、さわさわと枝葉を鳴らしている。湿った土の匂いが鼻を抜け、少しだけ呼吸が楽になった。


やがて、見慣れた丘へ辿り着く。


そこには、巨大な杉の木が一本だけ空へ向かって伸びていた。


俺のお気に入りの場所だ。


杉の根元に腰を下ろし、持ってきた文庫本を開く。


木漏れ日が揺れる。

風が気持ちいい。


気が緩み、だんだん瞼が重くなっていった。


「……少しだけ、寝るか」


仰向けになり、本を顔の上に乗せる。


その瞬間だった。


「――鷲津さま、起きてください」


すぐ真上から、女の声がした。


驚いて本をどける。


そこには、一人の女が正座していた。


「……っ!?」


息が止まる。


さっきまで、誰の気配もなかった。


足音も。草を踏む音も。


なのに女は、まるで最初からそこにいたみたいに、静かにこちらを見下ろしている。


二十代前半ほどだろうか。


長い黒髪を後ろで束ね、凛とした顔立ちをしている。袴姿のその姿は、まるで時代劇の女剣士だった。


「鷲津さま。そろそろお屋敷へお戻りください」


意味が分からない。


俺は慌てて身体を起こした。


「あの……誰ですか?」


女は不思議そうに小さく首を傾げる。


「何を仰っているのですか。凜です」


「いや、俺、鷲津なんて名前じゃ――」


そこまで言いかけた瞬間。


ふと、違和感に気付いた。


風の匂いが違う。


鳥の鳴き声も。


見上げた空の色さえ、どこか知らないものに変わっていた。



凜に案内されるまま丘を下りながら、俺はずっと混乱していた。


いや、混乱なんて言葉じゃ足りない。


頭がおかしくなりそうだった。


公園だったはずの景色は、いつの間にか見知らぬ森林へ変わっている。遊歩道は消え、代わりに石畳の道が森の奥へ続いていた。


空気も違う。


木々の匂いが濃い。風は澄みきっていて、遠くから川の流れる音まで聞こえてくる。


何度もスマホを確認する。


圏外。


いや、それ以前に、画面表示そのものが不安定になっていた。


「……夢、だよな」


呟いてみるが、頬をつねると普通に痛い。


前を歩く凜は相変わらず静かだった。


長い黒髪を後ろで結い、袴姿のまま迷いなく森を進んでいく。その姿はまるで時代劇の女剣士みたいだった。


やがて森を抜ける。


その瞬間、俺は思わず息を呑んだ。


山々に囲まれた巨大な和風建築群。


白木と黒柱で造られた壮大な屋敷が、広い敷地の中に静かに広がっていた。


瓦屋根は幾重にも連なり、渡り廊下が庭園の上を美しく繋いでいる。


池には鯉が泳ぎ、石灯籠が並び、紅葉と竹林が風に揺れていた。


京都の古い寺社や武家屋敷を思わせる景観。


だが、その規模が異常だった。


ひとつの城というより、“和の都”そのもの。


そして屋敷の奥――山を背負うように建てられた本殿の上空には、黒い雷雲が静かに漂っている。


まるで空そのものが、この屋敷に跪いているみたいだった。


「……なんだよ、これ……」


凜が立ち止まり、静かに振り返る。


「雷山家本邸にございます」


その言葉に、背筋が寒くなる。


「鷲津さまのお帰りを、皆お待ちしておりました」


門の前には、和装姿の男女が整列していた。


武士のような者もいれば、陰陽師を思わせる装束の者もいる。


そして全員が、一斉に膝をついた。


「鷲津様、お帰りなさいませ」


重なる声。


その瞬間――。


バチッ。


俺の右手から青白い火花が散った。


「っ!?」


驚いて手を見る。


指先を雷が走っている。


細い電流が皮膚を這い、空気へ弾けていた。


「な、なんだこれ……!」


その直後。


ゴロォォォン――……


屋敷の上空で低い雷鳴が響いた。


空気が震える。


庭園の池に波紋が広がり、竹林がざわめいた。


周囲の者たちがさらに深く頭を下げる。


「雷が応えた……」


「やはり当主様だ……!」


「雷山の御力が戻られた……!」


違う。


違う違う。


俺はただの公務員だ。


誰かの上に立つような人間じゃない。


期待なんてされたくない。


また失敗したらどうする。


また壊れたらどうする。


胸の奥が急速に苦しくなる。


呼吸が浅い。


まずい。


不安発作が来る――。


「鷲津さま」


凜の声が静かに届く。


「深呼吸を」


「……っ」


「大丈夫です。ここに、あなたを責める者はおりません」


その言葉に、俺は目を見開いた。


責める者はいない。


その一言が、妙に胸へ刺さる。


日本では、そんなふうに言われたことがなかった。


気付けば、暴れていた雷が静かに消えていた。


凜はそんな俺を見つめ、小さく目を伏せる。


「……やはり、以前の鷲津さまとは違う」


「え?」


「いえ」


彼女はそれ以上何も言わなかった。


だがその瞳には、どこか哀しみのような色が浮かんでいた。


そして俺はまだ知らない。


本物の雷山鷲津が消えた理由も。


雷山家が今、他国から命を狙われていることも。


そして――。


この京都のような静かな屋敷の地下深くに、“本物の鷲津”の秘密が眠っていることを。


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