黒雲の下
風の国へ向けて出発したのは、翌朝まだ日が昇りきる前だった。
雷山家の正門前には大型の馬車が並び、使用人達が慌ただしく荷物を積み込んでいる。空気は冷えていたが、遠く北東の空だけが黒く濁っていた。
あれが風の国方面らしい。
「……嫌な空だな」
思わず呟くと、ギンが苦笑した。
「実際かなり異常らしいですよ。あそこだけ雷雲が動いてないとか」
「普通そんなことあるのか?」
「ないですねぇ」
さらっと言うな。
今回同行するのは、俺、凜、ギン。そして剣硝とシエル。カナは当然のように不満顔だった。
「いいなぁ……」
「危険だからな」
「むぅ……」
頬を膨らませる。
するとシエルがしゃがみ込み、カナの頭を軽く撫でた。
「帰ったら土産くらい買ってきてあげるわよ」
「ほんと!?」
「気が向いたらね」
「やったー!」
ちょろかった。
凜が小さく息を吐く。
「では、参りましょう」
馬車がゆっくり動き始める。
◇
風の国までは二日ほど掛かるらしい。
街道を進む馬車の窓からは、広い草原と森が見えていた。時折、小さな集落も見える。
「そういえば」
俺は向かい側のギンを見る。
「風の国って、どんな国なんだ?」
ギンは少し考えてから答えた。
「自由な国ですねぇ。放浪文化が強いんですよ」
「放浪文化?」
「定住しない人間も結構います。旅人とか傭兵とか、“風のまま生きる”みたいな考え方が根付いてるんですよ」
「へぇ……」
もっと堅い国を想像していた。
「その割に、特臣の一人はかなり堅いですけどね」
ギンが苦笑する。
「斬寺って人か?」
「はい。あの人だけ異常に軍人みたいなんですよ。“規律こそ力”みたいな人です」
「風の国っぽくないな……」
「全然っぽくないですね」
すると別の馬車からシエルが顔を出した。
「でも強いわよ、斬寺」
「へぇ」
「真正面から敵を叩き潰すタイプ。馬鹿みたいに真っ直ぐ」
シエルはそこで肩をすくめる。
「ミストは逆だけど」
「ミスト?」
「常に顔隠してるのよ、あいつ」
俺は少し首を傾げた。
「顔を?」
「包帯と布でずっと隠してるんです」
ギンが説明する。
「しかも滅多に喋らないですね。どこで何してるか分からない時もありますし」
「……なんか怖いな」
「実際かなり謎な人ですよ」
自由な国なのに、特臣はクセが強すぎる。
そんな話をしているうちに、日が傾き始めていた。
馬車は街道脇で停止し、使用人達が野営の準備を始める。今日はここで一泊するらしい。
焚き火の火が揺れ、周囲を橙色に照らしていた。
遠くの空を見上げる。
黒雲は、昼よりさらに広がっている気がした。
ゴロ、と低い雷鳴が響く。
「近づいてるな……」
思わず呟く。
「気になる?」
後ろから声がした。
振り返ると、シエルが立っていた。
「ああ。あの雷雲」
「普通じゃないもの」
シエルも空を見る。
「風の国側の報告だと、夜になると雷の音が増えるらしいわ」
「……嫌な話だな」
「実際嫌な話よ」
その時だった。
パチ、と空気が弾ける音がした。
反射的に視線を向ける。
街道脇の森。
その奥で、一瞬だけ黄色い雷が走った。
「……今の」
俺が呟くより早く、シエルの表情が変わる。
「ギン!」
声が飛ぶ。
次の瞬間、ギンと凜がこちらへ駆けてきた。
「どうしました!?」
「森の奥で雷が見えた」
空気が変わる。
剣硝が静かに立ち上がった。
「……近いな」
低い声だった。
森の奥で、再びパチ、と雷が弾ける。
今度ははっきり見えた。
黄色い雷。
木々の間を走る、不自然な光。
ギンが表情を消す。
「鷲津様、少し下がってください」
「いや、でも――」
「嫌な感じがします」
その声は冗談の時の軽さが消えていた。
森の奥。
木々の隙間から、“何か”がこちらを見ていた。
黒い影。
人の形をしている。
だが輪郭が揺らいでいた。
そして、その周囲を黄色い雷が静かに走っている。
影は動かない。
ただ、こちらを見ていた。
まるで、観察するみたいに。




