第15話 来年の種は、取り置いてございます
春分から一日目。播種の日でございます。
夜明け前に蔵へ参りまして、布を全部たたみました。九つとも検め終わっておりますので、今年はもう使いません。
平均は八十七でございました。十年、ずっと八十七のあたりでございます。
帳面に最後の一行を書きつけました。これで五三二年の春の欄が埋まりました。冊は、ここまででございます。
外へ出ますと、東の空が白んでおりました。ヨナが荷車に袋を積んでおります。父も出てこられました。
「五つでよかったな」
「五つでございます」
百二十エーカーに、五つの袋。残りの四つは蔵に置いてまいります。
馬に曳かせて、東の区画から始めました。畝は南北に切ってございます。
蒔き方は、母のやり方でございます。歩幅を決めて、腰の袋から掬って、振る。振る幅は、腕の長さと歩幅で決まります。決めておきませんと、日によって密になったり疎になったりいたします。
三十歩ごとに一度、後ろを見ます。落ちた粒の並びを見て、手の癖を直します。
「エルナさん、後ろばっか見てますね」
「見ませんと、片側に寄ります」
「寄るとどうなるんです」
「片側だけ密になります。密なところは、細く伸びて倒れます」
「じゃあ俺も見ます」
ヨナは首を捻って後ろを見ながら歩いて、畝を一本踏みました。
「ヨナさん」
「はい」
「前を見てくださいませ」
父は、袋の口を開けて回っておられました。蒔く役ではなく、運ぶ役でございます。
「エルナ」
「はい」
「歩幅は、幾つだ」
「二歩でひと振りでございます」
「母もそうだった」
父は袋を担ぎ直されました。
「わたしは三歩でひと振りだと思っていた。それで、初めの年に喧嘩になった」
「どちらが正しゅうございましたか」
「二歩だ」
父は前を向いたまま仰いました。
「三歩だと、真ん中が薄くなる。秋になって分かった」
わたくしは掬って、振りました。二歩、ひと振り。二歩、ひと振り。
母がこの畑で数えていた歩数を、いま同じ幅で数えております。書いてはございません。書いてございませんが、残っております。
日が高くなりましたころ、父が水を持ってこられました。三人で畝の端に座りました。
掌を見ますと、豆はもう固くなっておりました。潰れて、皮が厚くなっております。
「固くなりましたね」
ヨナが覗き込んで申しました。
「十日で固くなるって言ったでしょ」
「十四日かかりました」
「そりゃ、あんたが蔵の人だからだ」
わたくしは掌を握って、開きました。痛くございませんでした。
午後、南の風が出てまいりました。
風の日は、振り幅を狭くいたします。広く振りますと、軽い粒が風下へ流れて、片側だけ密になります。
「エルナさん、遅くなりません? それ」
「なります」
「じゃあ」
「今日が遅れましても、十四日ございます。片側だけ密になりますと、秋まで直りません」
「……あんた、いつも秋の話ばっかりしてますね」
「そうでございますか」
「ずっとです」
ヨナは麦わらを咥え直しました。
「まあ、そのほうがこっちも助かりますけど」
日が傾くころに、東の区画が終わりました。三十エーカーでございます。
残りは、これから十日ほどかけて蒔いてまいります。適期は十四日ございますので、間に合います。
夕方、蔵へ戻りまして、新しい帳面を出しました。
五三三年の冊でございます。表紙に年を書いて、最初の頁を開きます。
いちばん上に、日付、場所、麦の別、面積、袋の別。それから今日の分を書きつけました。
三月二日、ホルスト東区画、赤麦、三十エーカー、一の袋、二の袋。
書き終えて、筆を持ったまま、少しのあいだ止まっておりました。
それから、頁のいちばん下の行に、書きました。
――五三二年 秋 ホルスト 赤麦 取り置き 三十俵。
「なに書いてんです、それ」
ヨナが戸口に立っておりました。敷居のところで止まっております。
「秋の分でございます」
「秋? まだ蒔いたばっかりでしょ」
「はい」
「穫れてもねぇのに、書くんですか」
わたくしは筆を置きました。
「先に取るのでございます」
「先に」
「穫れてから残った分を取り置きますと、残りませんので」
ヨナは、麦わらを咥え直しました。咥え直してから、しばらく黙っておりました。
「……奥さまが言ってたやつだ」
「はい」
「蒔く分は、先に取る」
「そのとおりでございます」
ヨナは敷居のところで一度足を上げて、下ろしました。またぐかどうか迷われたようでございます。
「入ってもよろしいのですが」
「いや、いいです」
そう仰って、そのまま行ってしまわれました。行き際に、こう申されました。
「エルナさん、明日は北からでしょ。俺、先に馬つないでおきます」
「お願いいたします」
蔵に一人になりました。
棚は四段ございます。今日五つ運び出しましたので、いま四つ残っております。四つが、来年の元でございます。
書いてしまいますと、三十俵は取り置くことになります。
今年の穫れがどれほどでも、先に三十俵を引きます。引いた残りで、借財を返し、麦を売り、冬を越します。残りが少なければ、少ないなりに越します。
母が二十年前に決めたのは、そういう順番でございました。
順番を決めておきますと、その年の都合で崩れません。崩れるのはいつも、その年の都合のほうが先に来たときでございます。
わたくしは新しい冊を閉じて、古い九冊の隣に置きました。
九冊と、一冊。十冊でございます。
背は、まだ割れておりません。今年からは、割れることになると思います。ミレナさまが写しにいらっしゃいますので。
戸を閉めて、鍵をかけました。
鍵は、わたくしが持っております。
母屋のほうで、父が誰かと話しておられる声がいたします。使いの者でございましょうか。明日の分の割り振りを、まだ決めておりません。北の区画は東より狭うございますので、袋を一つ半で足りるはずでございます。半分残りましたら、南へ回します。
そのあたりを考えながら、井戸端で手を洗いました。
水は、まだ冷とうございました。
穫れてから残った分を取り置くと、残りません。だから先に取る。エルナがしたのは、結局それだけでございます。怒鳴りもしませんし、取り返してもおりません。十年ぶん同じ形で書いてあったので、一枚抜かれても平均が動かなかった。それだけの話でした。
畝を南北に切るのも、袋の底から三十粒を取るのも、四日目に数えるのも、実際にある手順です。調べているうちに、記録は量ではなく揃っていることのほうが強いのだと分かってきて、そこが書きたくなりました。
エルナの畑は、来年も百二十エーカーのままです。増えません。蔵に残した四つの袋が、そのための元です。秋になればまた三十俵を取り置きますし、ヨナはたぶん、そのときも敷居のところで麦わらを咥えて見ております。




