第14話 春分から十四日
春分でございます。残り、ゼロ日。
九つの袋は、昨日で検め終わりました。今日は支度だけでございます。
朝から、ヨナと二人で袋を運びました。九つのうち、今年蒔きますのは五つ。残りの四つは、秋に取り分けるための元でございます。
「エルナさん、これ全部蒔かないんですか」
「蒔きません」
「もったいねぇ」
「蒔きますと、来年ぶんがございません」
「あ」
ヨナは麦わらを咥え直しました。
「そういうことか」
「そういうことでございます」
「じゃあ、うちの畑って、毎年三分の一は来年のために働いてるんですね」
わたくしは、荷車の縄を締める手を止めました。
「そのように申せます」
「今年の飯のために働いてるんじゃなくて」
「両方でございます。ただ、先に取るほうを決めておきませんと、両方とも無くなります」
「先に取る」
「はい」
ヨナは麦わらを咥え直しました。
「奥さまと同じこと言ってら」
「同じことでございます」
昼過ぎ、ヴァイデンから馬が参りました。ミレナさまご自身でございました。馬車ではなく、馬でいらしております。
「エルナさま」
「ミレナさま」
ミレナさまは、鞍から降りるなり、こう仰いました。
「豆にしました」
息が上がっておられます。
「南の八十エーカー、豆です。今朝、小作の方たちに伝えました」
「はい」
「十八俵は、断りました。六俵ぶんしか蒔けないのに、百八枚は払えません、と申し上げました」
「コルプ商会は」
「たいそう不機嫌でした」
ミレナさまは、そこで初めて笑われました。
「叱られるかと思ったのですけれど、アルベルトさまは何も仰いませんでした」
「そうでございますか」
「ただ、一つだけ」
ミレナさまは、手綱を持ち直されました。
「――エルナに礼を言っておいてくれ、と」
わたくしは頭を下げました。
礼を言われるようなことは、しておりません。数を書いて、請われたときにお渡ししただけでございます。
「ミレナさま」
「はい」
「豆は、株の間を広く取ってくださいませ。麦の感覚でお蒔きになりますと、密になります」
「どのくらい」
「掌ひとつ半でございます」
ミレナさまは、掌を広げて、それを見ておられました。
「掌ひとつ半」
「はい」
「覚えます」
「お書きになったほうがよろしゅうございます」
「あ」
ミレナさまは慌てて懐を探られましたが、紙をお持ちではございませんでした。
わたくしは袂から使い古しの紙を出して、掌ひとつ半、とだけ書いてお渡しいたしました。
「……エルナさま」
「はい」
「わたし、これから、こういうものを何枚も持つことになるのですね」
「なります」
「多くなったら、どうすればよいのでしょう」
「綴じてくださいませ」
ミレナさまは、紙を両手で持っておられました。
「同じ形で、同じところに書いてくださいませ。年ごとに綴じますと、そのうち平均が出ます」
「……あの、エルナさま」
「はい」
「わたし、来年の秋に、取り分けられるでしょうか」
わたくしは、少し考えました。
「豆のあとの土は、麦がよく出ます。来年の麦が良ければ、そこから取り分けられます」
「取り分け方は」
「重い粒を残します。水に落として、浮いたものを外します。それから、粒の揃わないものを外します」
「四倍、見るのでしたか」
覚えていらっしゃいました。わたくしはヴァイデンの蔵で、家令にそう申し上げたことがございます。ミレナさまは、その場にいらっしゃいませんでした。
「どちらで、それを」
「家令さまが、辞めるときに仰いました」
ミレナさまは、手綱を撫でておられました。
「――四倍だそうだ、と。それだけ仰って、お帰りになりました」
わたくしは、それを聞きながら、門の外の道を見ておりました。
あの方の帳簿には、その欄がございませんでした。最後まで、書ける形にはならなかったのだと思います。それでも、覚えて帰られました。
ミレナさまがお発ちになったあと、東の畝に立っておりますと、道の向こうから徒歩の人影が近づいてまいりました。
アルベルトさまでございました。
馬もお連れになっておりません。半日の道を、歩いてこられたのでございます。
「エルナ」
「アルベルトさま」
外套の裾が泥だらけでございました。
わたくしは畝の上に立っておりました。手には、明日蒔く袋の口紐を持っております。
「豆にした」
「伺いました」
「君の帳面を、読んだ」
アルベルトさまは、そう仰いました。
「ミレナが写したやつをだ。全部じゃない。数のところだけだが」
「はい」
「……十年ぶん、同じ形で並んでいた」
「はい」
「あれを、毎年、書いていたのか」
「書いておりました」
アルベルトさまは、しばらく黙っておられました。
「なぜ、見せなかった」
「お渡ししたことはございます」
「いつ」
「毎年、秋の終わりに、蔵の棚へ納めておりました。あの棚は、どなたでも開けられます」
風が、畝の土を薄く飛ばしました。
「そうか」
アルベルトさまは、それだけ仰いました。
わたくしは、何も申し上げませんでした。許すとも、許さないとも、申し上げませんでした。
言うことがございませんでした。
「エルナ」
「はい」
「戻ってこいとは、もう言わない」
「はい」
「……一つ、訊いてもいいか」
「はい」
「君は、いつから諦めていた」
わたくしは、袋の口紐を持ち直しました。
怒っておりませんか、と訊かれるものと思っておりました。そちらでしたら、否と申し上げられます。
「五二九年の秋でございます」
「三年前か」
「はい」
「何があった」
「何もございませんでした」
わたくしは畝の先のほうを見ておりました。
「その年、買った種の数を測って、帳面に書きました。五十八でございました。書きましてから、どなたにも申し上げませんでした」
「なぜ」
「申し上げても、と思いましたので」
アルベルトさまは、何も仰いませんでした。
「ですので、今年、棚が空でございましたときも、驚きませんでした」
「……」
「驚かなかったことのほうが、こたえました」
「……そうか」
アルベルトさまは、畝を一度ご覧になって、それから道のほうへ向き直られました。
「そうですか」
わたくしは、そう申し上げました。
アルベルトさまが半分ほど行かれたところで、ヨナが鍬を担いで戻ってまいりました。すれ違って、こちらへ来られます。
「エルナさん、今の」
「はい」
「歩いて帰るんですかね」
「そのようでございます」
ヨナは麦わらを咥え直しました。
「馬、貸します?」
「いいえ」
明日が、播種の日でございます。
豆は麦より株の間を広く取ります。掌ひとつ半。ミレナが来年また訊きに来られるように、そこだけ渡しておきました。
四倍という数を家令が覚えて帰ったところは、書きながら少し意外でした。あの人の帳簿には最後まで書ける欄がなかったのに、頭には入っていたということです。
明日で最終話です。エルナは畑に出ます。十年ぶりに、自分の種を、自分の畑へ。




