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命令 対 契約

休日の人気のない庁舎の廊下に、コツコツと軽快な音が響く。


その音の主が扉の前に立った瞬間、扉が細く開いて腕が伸びてきた。

その腕は、音の主――黒いスーツを着たレジェロの襟首を掴んで、宙に上げる。


「休日出勤か?残念ながら休日手当は出ない――」


「黙れ、クソ狸。」


「勘弁してくれ。私は君や王子のように丈夫じゃないんだ。」


「ドルチェに手を出したら、死んでも手は貸さねェ――

俺がそう言ったことを覚えているな?」


「ああ……記憶にございませんが?」


「腹芸は一流だな!クソ野郎!」


扉が大きく開き、レジェロは所長室の絨毯に吹っ飛ばされる。

レジェロが顔を上げると、

炎のように燃え立つ赤い髪、

青く輝く瞳、

黒光りする肌、

首元や腕に広がる奇怪なタトゥー

——既に異形の姿に変化したフィーネが見下ろしていた。


「近くで見ると、迫力あるねえ。

――王子様は、この姿を見ても、君を愛し……」


「黙れ。アイツは俺を愛していない。」


「アッハッハッハ!愛を狭義に解釈かい?役人らしい解決策だよ。」


レジェロは絨毯に座ったまま葉巻を取り出すと、火を付ける。


「何とでも言え。

――アイツは俺の主人(ヘア)、俺はアイツの従者(ディーナー)だ。」


「なあ、カーポ君。」


レジェロはゆっくりと煙を吐きながら、懐からシルバーの小さな灰皿を取り出して灰を落とす。


「君たちが契約したところで、ダル・セーニョ先生の命令権に影響あるわけ?

――君、自分の力をあんまり知らないじゃない。」


「ったりめェだろ。知ってる宗教団体の奴は始末するわ、召喚した俺は新生児だわ――」


「君の言うとおりだ。私なら当時の担当者を僻地に異動させている。」


フィーネは一歩近づく。


「なぜ、ドルチェを襲った。」


「私が先に質問した。君の回答が先だ。

――君たちが契約したら、ダル・セーニョの命令権は消滅するのか?」


「やってみろ。」


言い放つフィーネの言葉に、思わずレジェロは葉巻を口から離す。


「攻めるねえ……」


やれやれといったようにレジェロは立ち上がる。


「私がこのハンコを使えるのは、ダル・セーニョから委任された範囲だからねえ。

命令権が消えたかどうかの確認のためには使えないわけよ。」


所長印を取り上げるとフィーネに振ってみせる。

フィーネは嘲笑う。


「頭悪ィな。今まだ拘留されているアドルフで試してみろよ。

あの男は、ダル・セーニョ襲撃計画に関わっていたから……俺がテメェの……

ダル・セーニョの命令を受けてとっ捕まえたんだ。

今、俺に、アイツを消すように命じてみろ。」


レジェロは一瞬動きを止め、所長室から見える午後の空に目を滑らせた。

それから、フィーネをゆっくりと見て、所長印を机に強く押し付ける。


その瞬間に部屋に暗黒が満ち、魔法陣がフィーネを取り囲む。


「フィーネ・ダ・カーポ。終局の悪魔……

ダル・セーニョの名において命じる。

アドルフの人生に終局を与えよ。」


轟々とフィーネを取り巻く魔法陣は、その身体を這いまわるだけで、

左胸のタトゥーには入り込まない。


「俺の主人(マイン・ヘア)は、オクタヴィア・ドルチェ――」


フィーネは、取り巻く魔法陣の光に抗うように、

悪魔のタトゥーに手を置く。


――さっき、ドルチェが激しく唇で吸い上げた感触を思い出す。


「悪魔の契約が成立した以上、クソ命令なんぞ取消しだ。」


「その割には苦しそうだね?」


レジェロはさらに所長印を机に押し付ける。


「どうした……命令の取消事由になるほどのもんじゃないの?

オクタヴィアとの契約はそんな程度?」


「おい!何、ドルチェを名前で呼んでんだ!

ドルチェは……」


フィーネは歯ぎしりをする。


「ドルチェは……俺だけの主人(ヌア・マイン・ヘア)だ!

気安く呼ぶんじゃねェ!!」


「こりゃまた……驚いたな。」


レジェロは葉巻を口から離して、その栗色の瞳をフィーネに注いだ。


「誰にも近づかなかった君がそれほど言うなんて……契約の力?

それとも、オクタ……おっと失礼、王子様の魅力?」


「うるせェ!」


フィーネは目を閉じた。


契約が当然のように命令に優先するかと思ったが違うのか――

命令と契約。

これを、悪魔の審判の場に引きずり出す。


愛の言葉は口に出せない。

視線も交わせない。


でも、今、この腐った命令に打ち勝つには、

言葉と目――

ドルチェと与え合えない感覚も使って戦う。


フィーネは青く輝く、奇怪な模様が浮かんだ瞳を開け、レジェロを凝視した。


「ご主人様(マイン・ヘア)、オクタヴィア・ドルチェは、

何もかも美しい。


顔や身体だけじゃねェ。

紫水晶みてェだった目も、

今は白くなっちまった目も美しい。

それは、アイツが、どんな時、どんな場所でも、

憎悪や妬み——悪意に負けなかったからだ。

自分や親を地獄に堕とした悪魔を見ても、

アイツはアイツのままだった。

そんなこと、誰にもできることじゃねェ。

オクタヴィア・ドルチェだからだ。

美しく、

優美で、

有能で、

余裕――

その面の下で、

優しく、

真面目で、

誠実だった。

悪魔に対しても。」


フィーネの煌めく瞳には、出会ってから今までのドルチェの姿が、

はっきりと浮かんでいる。


二度と互いを見つめ合えないとしても、

愛の言葉を伝え合えないとしても、


匂いを美しいと言って、

声を美しいと言って、

悪魔のタトゥーにすら口づけしてくれる、

大きくて、

大らかで、

偉そうで、

泣き虫で、

酒に弱くて、

笑うと少年みたいになる、

そんなドルチェの姿が、

自分の身体の隅々から溢れ出してくるようだ。


その感覚は光となって、心臓がないフィーネの左胸から、

タトゥーを伝って全身を駆け巡る。


「契約の力はその程度か?フィーネ!」


レジェロが暗い目で睨みつける。


「そんな程度では――


ダル・セーニョには勝てない。

――君も、ドルチェも。」


フィーネが青い瞳をパッとレジェロに向けたとき、

所長室のドアが大きく開いて、ドルチェの声が響いた。


「フィーネ!!!」



9月16日完結予定です。後半は恋愛描写も濃くなり、二人の身体的な関係も進展します。


『十二支の鼠の少年王は猫を愛したい』も連載中です。

全133話、完結まで執筆済み。毎日更新予定。

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