川のせせらぎ
休日の朝、鍋を背負ったドルチェは、一人で、フィーネの家に向かって歩いていた。
歩き始めは北風を冷たく感じたが、
しばらく歩くとそれが心地よい。
白杖を動かして歩く、長身の美しい男には、道行く人が声を掛ける。
ドルチェは声の方向に会釈をしたり、
必要な時は方角を尋ねたりして、歩みを進める。
(それにしても)
ドルチェは思った。
(驚くほど、世界には音が溢れているものだ。)
風の音、靴の音、人のざわめき、どこかで缶を蹴る音、犬の鳴き声、よく分からない音……
あまりに多くて、頭がついていかないように思う。
どれに向き合えばいいのか、分からないのだ。
(目が見えていたときは、必要な音を自然と区別していたのか?)
フィーネを目の前にすると、その瞳に夢中になって、
あんなに美しい匂いを持つ男なのに、それすら「フィーネ」として一つにまとめていた気がする。
(休みが明けたら、あの匂いを消す香水をつけてやろう。
――あんな美しい匂いをさせていたら、皆、あの男に夢中になる。)
足の裏の感覚が、砂利に変わる。
郊外に出たのだ。
風の音が草をかき分ける音に変わる。
自分を取り巻く空間が広がったように感じる。
これも、様々な音が物理的に遠くなったことからそう感じるのかもしれない。
白杖と足の裏が、橋に踏み入れたことをドルチェに教える。
(ここは、クララ嬢が重傷を負って、フィーネに会うために走って、
川に頭を突っ込んだところだ。)
そして――
(初めてフィーネに抱き締められた場所だ。)
人間にうんざりしていると言っていた、終局の悪魔フィーネ。
(私にうんざりしても、契約がある以上、あの男は私から離れられない。)
それは、ドルチェにとって、嬉しい以上に切なかった。
ドルチェはゆっくりと川に降りていく。
が、段差に足をとられて、川岸まで滑り落ちてしまった。
(やれやれ……フィーネの家まで走って行けるようになるには、
まだ時間がかかりそうだ……)
手から白杖も抜け落ちている。
手探りで探しても、手に当たるのは冬の枯れ草だけだ。
諦めて立ち上がろうとしたドルチェの耳に、
コポコポと軽快な川のせせらぎが聞こえてくる。
(良い音だ……)
たくさんの音が合わさってさざめいているのに、
十二歳のとき、家の周りを取り囲んでいた人間どもの喧騒とは程遠い音だ。
ドルチェはゴロリと寝転がった。
アイマスクを取っても、晴れか曇りか分からない。
手を伸ばしても、指先がどこにあるか分からない。
ただ、闇しかないのだ。
でも、ドルチェを絶望に沈ませるには、
周りの音はあまりにも軽やかで、風は冷たく澄んでいた。
――遠くから、誰かが走る音が聞こえてくる。
ドルチェは思わず微笑んだ。
(良い音だ……)
段々近付いてくる。
ドルチェは起き上がらない。
「ドルチェ!!!」
叫び声と、全力で走る足音――
次の瞬間、ドルチェはフィーネに抱き起こされた。
「大丈夫か!?なァ!落ちたのか!おい!生きてるか?ドルチェ!」
「騒々しい小役人だな。
――川のせせらぎを聞いていたんだ。」
「説得力ねェな!」
フィーネが散らばった鍋や白杖を拾い上げていると、
もうドルチェは段差を登って、橋の上に立っている。
「さっさと行くぞ。
――ファルファッレが待っている。」
フィーネは一飛びでドルチェの隣に立ったが、
ドルチェがアイマスクを首にかけたままになっていることに気付いた。
自分の白い眼球が相手に見えることを嫌って、
人前ではアイマスクをしているのだが……
(俺の前では取れよっつっても、取らねェんだよな……)
フィーネも、白い眼球を見るのは辛い。
あの美しかった紫水晶の瞳が失われたことが、
ドルチェの苦しみを背負えないことが、ただ苦しい。
でも――
「これさ、やっぱり、俺の前では取らねェ?」
フィーネはドルチェの首のアイマスクを少し引っ張った。
ドルチェは片手で目を覆って、呟く。
「気遣いは分かるが、お前を不快にさせたく……」
「俺が、見てェの!オメェの目も、顔も、全部。」
フィーネは、目を覆うドルチェの手をそっと外す。
ドルチェは怯えたように顔を逸らす……
が、そのこめかみに、フィーネは思い切り頭突きを食らわした。
ドルチェは頭を抱えて唸る。
「貴様……!!」
ドルチェはフィーネを睨むように、怒りで紅潮した顔を上げた。
「ハッハッハッ!ザマぁ!」
それを聞いたドルチェは、笑うフィーネに掴みかかり、的確に襟首を掴む。
「クソ悪魔め!!」
「あーあ、オメェ、やっぱり便利な顔面だな。」
フィーネは、襟首を掴まれたまま、ドルチェの鼻を自分の鼻でつつく。
「白い目が、美しいんだ。」
ドルチェは、一瞬狐につままれたような顔になり、次の瞬間には首から耳まで赤く染まる。
「バ……馬鹿を言うな、この、こ、小役人の……そんな、わけ、わ……」
ドルチェは、慌てて白杖を猛然と動かして歩き出し、一人でまくし立てる。
「早く、貴様の家で、ファルレ……ファラ……ファルラ、レ、茹で……」
フィーネは笑いをこらえて、耳元で歌う。
「ド・レ・ミ・ファ・ソル・ラ・シ……ファルファッレ?」
ドルチェは驚いた。
フィーネの歌声など初めて聞いたし、何より……
(なんという、涼やかな声だろう……)
そうだ――さっきの、川のせせらぎだ。
ドルチェは身体中に澄んだ空気が注ぎ込まれた気がして、
背筋を伸ばして、大らかに歌った。
「ド・シ・ラ・ソル・ファ・ミ・レ……ファルファッレ!」
今度はフィーネが目を丸くした。
――その伸びやかで、深くて、美しい歌声に。
ドルチェは晴れやかに振り返った。
「貴様は、声も美しいな?」
「ハァ!?褒めんなよ!二度と歌わねェからな!
あ!オメェは歌え!ファルファッレ茹でる間、ずっと歌えよ!」
「いいとも。」
「即答かよ!」
男たちは冬の青い空の下を生き生きと歩く。
白い家が見える頃、ドルチェは思いついたようにフィーネに聞いた。
「貴様、さっき、私の全部を見たいと言ったな?」
「おん?あ、ああ、言った、言った。」
「全部は、全部のことか?」
「全部は、そりゃ全部だろ?」
ドルチェはピタリと立ち止まって、静かに言った。
「私も見たい――貴様の全部を。」
9月16日完結予定です。
このお話は序盤から糖分高めですが、後半に行くほど糖分・恋愛描写も濃くなり、身体的な関係も進展します。 よかったら、下の「リアクション」をポチッとしてもらえると嬉しいです。
『十二支の鼠の少年王は猫を愛したい』も連載中です。
全133話、完結まで執筆済み。毎日更新予定。
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